拝啓、空の彼方のあなたへ

きっと、空に近い場所にいるあなたへ伝えたいこと。手紙、時々、コトバ。

3月32月 ~彼の温もり~

ここは、2年と2ヶ月程前まで住んでいた、彼と過ごした家だった。

驚きながら声が聞こえた方へ振り返ると、そこには、彼が立っていた。

 

「ちゃんと早起き続いてるんだね。関心、関心。

休みの日は、決まって寝坊してた数ヶ月前が懐かしいねぇ。」

 

何も言葉の出ない私は、彼と目が合った時、どんな顔をしていたのだろうか。

 

「ん?お前、なんか老けたな。」

 

私の顔を覗き込んだ彼は、両手で私の顔を挟むと、マッサージ!と言いながら、グリグリと強く動かして、笑っている。

 

彼の両手から、解放された私の口からやっと出てきた言葉は、

「そんなことないと思うんだけど・・・」

だった。

 

かすれて、モゴモゴと声を出すのがやっとだった私の様子にはお構いなく、彼は、更に続けた。

 

「嘘!マッサージとか、パックとか、最近してないじゃん。

前はもっと気を使ってたよな。

朝だってさ、時間がある時は、パックしてからメイクしてたじゃん。

こんなに早起き出来るようになったのに、俺の奥様は、なんて手抜きなんでしょう。

嫌ですわ~」

なぜか最後は、近所の奥様風に、私の手抜きを指摘する彼。

 

今、どんな言葉を発するのが正しいのか分からずに、彼の様子を凝視していた私に、彼は笑って言った。

「ねぇ、俺のコーヒーは?

愛情たっぷりのコーヒーでお願いします。」と。

 

彼の言う愛情とは、砂糖のこと。

彼は甘いコーヒーが好みだった。体に気を遣い、砂糖を減らそうものなら、いつも拗ねて、『愛情が足りないよね』なんて、膨れつらを見せるのだ。

 

彼好みに淹れたコーヒーを手渡すと、

「ありがとう。」

そう言って、嬉しそうにコーヒーに口をつけた彼に、私はやっと、質問をすることが出来た。

 

「なんで?」

私の質問に、彼はポカンとした顔で私を見つめた。

そして、彼から返って来た返事は、

「は?何が?」だった。

 

私が彼に聞きたかったのは、なぜここにいるのか。

いや、これは何なのか━━━。

亡くなったはずの彼がここにいる。

コーヒーを手渡した時に触れた彼の手が、温かかった。

なんで?が消えないまま、さっき触れた彼の手の温もりが残る指先を見つめた。

 

私は彼に逢いたくて、逢いたくて、仕方がなかった。

もう、どんなに手を伸ばしても、この手が触れることの出来ないところに逝ってしまった彼に、私は、ずっと逢いたかったのだ。

 

それなのに、さっきから驚きだけが先行して、何も出来ない。

そして、上手く言葉が出てこない。

 

━━━始めに彼が目の前に現れた時に、抱きしめる、とか、逢いたかった気持ちを伝えるとか、この再会は、もっと、ドラマティックで、素敵な感じでなくては、ならなかったのではないか。

 

彼は、いつの間にか、コーヒーが入ったマグカップを持って、いつも彼が座っていた席に座り、テレビを観ていた。

そう。あの頃、当たり前だったこの光景。

昨日の続きみたいな顔をして、コーヒーを飲みながら、テレビのチャンネルを変える彼を見つめた。

 

彼が此処にいる━━━。

 

今、彼が座っている席の丁度、後ろ側が自然と目に入った。

彼が亡くなり、この家に住んでいた頃に、彼の場所としていたところには、彼の遺影も位牌も何もなく、そこには、ただの空間だけが広がっていた。

そして、彼が今、手にしている彼専用のマグカップが、あの日━━━彼が小さな壺に入って家に帰って来た日から、彼にコーヒーを淹れてお供えしているマグカップであることに驚いた。

 

私は、さっき、彼にコーヒーを淹れる時に、何も考えず、食器棚から、あのマグカップを出したのだ。

 

何これ━━━。

私は、とりあえず、落ち着くために、自分の分のコーヒーを持って、彼の前の席に座った。

 

これは、夢なのかも知れない━━━私は、時々、彼と過ごす夢を見る。

夢の中では、いつでも、昨日の続きみたいに、彼との時間を過ごす。

そんな時、これは夢だ、などと深く考えたことはなかったけれど、たまたま、今日だけ、こんなふうに難しく考えてしまったのだろう。

 

そっか。夢━━━だよね。

あの日からの記憶を辿り、これが現実なわけないではないかと、落胆しながら、もう一度、彼を見つめた。

 

夢から覚める前に、私は、彼に伝えたいことがある。

 

少しずつ、冷静さを取り戻した私は、彼の隣へと移動し、体を彼に向けて、正面から、彼を見つめた。そして、少し驚いたような顔をした彼を、思いっきり抱き締めて言った。

「愛してるよ」って。

そんな私を、抱き返してくれた彼は、

「どうしたの?」

そう言いなから、私を強く抱きしめ、そして、髪を撫でてくれた。

 

もう、離れたくない━━━溢れ出す感情をそのままに、私は、もっと強く彼を抱き締めた。

 

そう。抱き合うこと。きっとこれが一番、気持ちが伝わるやり方なのだ。

 

彼は、とても温かい。筋肉質で、太い腕に包まれるのが、大好きだった。

ここは、私の大好きな場所。

彼の腕の中━━━その大きな手で髪を撫でてもらうのが好きだった。

 

きっともうすぐ、私は目を覚ますのだろう。

それまでは、このまま、こうしていたい。

 

目が覚めて、現実へと戻っても、忘れないように、私は彼の温もりを、小さく聞こえる胸の鼓動を、彼の全てを感じながら、目を閉じた。