四苦八苦しながら、引っ越しを終えたばかりの頃の私は、よく眠っていた記憶がある。
それまでの2年5ヶ月分の疲れを取るかのように、本当によく寝ていた。
休日などは、一通りの家事を終えると、いつの間にか眠っていたこともあった。
そうして、存分に眠った私は、何をするわけでもなく、窓からボーッと空を見上げたりもした。
どれだけ、ぐうたらなのかと嫌気が差したこともあったけれど、今思えば、あれは、あの時の私にとって、必要な時間だった。
それまでの疲れを癒し、しっかりと前を向くための休息の時間だったのだと、今は思う。
私は密かに、この場所を『翼を休める場所』と名付けた。
ゆっくりと休む時間をくれたこの場所は、きっと彼が、連れて来てくれたのだろうと、いつの頃からか、漠然と考えるようになっていた。
4階建ての建物の2階が我が家。
少し不便なところもあるが、この場所のいいところは、空がよく見えるところだ。
窓から虹が見えた日は、なんだか得した気分で、虹が消えるまで、ずっと眺めていたんた。
あの虹を渡ることが出来たら、彼に逢いに行けるのだろうか。
あの日の私は、ただ、彼のことだけを考えていた。
ただ、彼を想う時間━━━。
此処では、私にとっての、そんなかけがえのない時間を作れるようになった。
いつの間にか、得体の知れない何かに追われることもなくなり、あの頃の分を取り戻すかのように、人より、ゆっくりの時間が流れるようになった気がした。
そうして、此処へ越して来てから少しづつ、元気を取り戻し、自分から前を向けるようになった。
当時、中学1年生だったあの子は、もうすぐ、高校3年になろうとしている。
あの子が高校生になり、大きく変わったことは沢山あるけれど、私の中で、特に、変わったこと━━━大変なことは、毎日のお弁当作りだ。
私は、料理が苦手だ。
それでも、極力、冷凍食品を使わずにお弁当を仕上げることを目標としてきた私は、今では、冷凍食品に頼らなくても、お弁当を作れるまでになった。
料理が苦手な私にとって、これは、大きな進歩だった。
思えば、彼が亡くなってから、私は、少しずつ、料理の腕を上げたように思う。
彼が側にいてくれた頃は、市販のソースに頼っていたナポリタンは、自分で味付けをすることが出来るようになった。これは、あの子の大好物だ。
料理をしながら、時々、思い出す彼への後悔。
彼と過ごした最後の春━━━。唐突に、豚汁が食べたいと言い出した彼。
あの春、豚汁を作ろうと、買い物へ出掛けたけれど、材料が揃わずに、冬になったら、豚汁を作る約束をしたんだった。
そして、彼と過ごした最後の誕生日には、杏仁豆腐をリクエストされた。
お菓子作りは好きだけれど、杏仁豆腐は、これまでに一度も作ったことがなかった私は、練習する時間を見つけることが出来ずに、
市販の杏仁豆腐を準備したんだった。
あの年、がっかり顔をした彼に、
次の誕生日には、手作りの杏仁豆腐を作る約束をしたんだ。
それが彼と過ごした最後になるだなんて思わずに、私は、軽々しく来年の約束をしてしまった。
材料が揃わなくても、あるものだけで、豚汁を作れば良かったのだ。
杏仁豆腐だって、どうにか工夫すれば、練習する時間が取れたのではないか━━━。
私は、時々、後悔の念に苛まれる。
『ごめんね。』
遺影に謝る私を見つめる彼は、いつでも穏やかな笑顔をこちらに向けてくれる。
それでも、私の後悔は、ひとつも消えることはない。