あなたへ
うちは、主人がうるさいものですから
初めてこんな言葉を使ったのは、
あなたと結婚して、間も無くの頃のことでした。
あれは、私ひとりで、家にいた日。
突然の訪問客に、何も考えずにドアを開けると、
そこに、笑顔で立っていたのは、新聞のセールスの方でした。
最近引っ越して来られたんですよね?
この辺りでは、皆さん、うちで新聞とってくれているんですよ
新聞を取る予定がなかった我が家。
新聞の購読を促そうとする言葉に、困った私は、
あなたが不在であることを説明しながら、
うちは、主人がうるさいものですから
こんな言葉を使って、帰って頂いたのでした。
仕事から帰宅したあなたに、
主人がうるさいものですからって言ったら、すぐに帰ってくれたよ
あなたのせいにしちゃった
ごめんね
その日の出来事を話せば、
それは良かった
そう言いながら、
俺がいない時に、確認もしないで、ドアを開けるのやめてね なんて、
苦笑いのあなたに、叱られてしまいましたね。
あれからの私は、ドアを開ける前に、
誰であるのかを確認するようになったものの、
例えば、庭先にいる時の訪問、
例えば、セールスと気付かずに、ドアを開けてしまった時、
時々出くわしたセールスの方に帰って頂く時の言葉は、
うちは、主人がうるさいものですからと、
この言葉を多用したのでした。
これは、こっそりと、私のお気に入りのフレーズ。
この言葉はね、困った時に、
あなたの存在が助けれくれる、魔法の言葉だったの。
そうして、ドアを閉めると、
なんだか、ひとりでに笑みが溢れてしまうような、不思議な言葉だった。
この言葉が、密かに、お気に入りだったのは、
あなたのことを主人と呼ぶ機会が、
あまり、なかったからなのかも知れません。
あなたを主人と呼ぶ時には、
なんだか、くすぐったいような、恥ずかしいような、
私の胸の中は、いつでも、
素敵な騒めきに満ちた、不思議な気持ちがしたの。
あなたと結婚してからの私は、
どれだけ、あなたのことを主人と呼ぶ機会があったのだろう。
私にとって、その言葉は、ずっと特別な言葉のまま、
あなたを主人と呼ぶことに慣れるには、
あまりにも、短い結婚生活だったのかも知れません。
うちは、主人がうるさいものですから
最後にこの言葉を使ったのは、
あなたを見送ってから、間も無くの頃のこと。
あの時もやはり、訪問者は、そそくさと帰り、
その魔法は消えないままでいてくれたけれど、
あの時の私は、
主人という言葉を発することに、とても胸が痛かった。
だから、あの日を最後に、
お気に入りだったあの言葉を使うことを、辞めたのでした。
何故だか、不意に、私が好きだったフレーズを思い出したのは、
最後に、あなたを主人と呼んだのが、
今日みたいに、
とても暑い日だったからなのかも知れません。