あなたへ
どんなに頑張っても、私は、あなたには、なれませんでした。
あなたを見送り、
あなたの分まであの子を守ると決めた私は、
時に、あの子のお父さんにならなければならないのだと、
努力を重ねながら、
私は、あなたになることは出来ないのだと知ったのでした。
どんなに頑張っても、私は、
あなたには、なれなかったけれど、
それでも、
どうしても、
父親であるあなたにならなければならなかった日がありました。
今日は、
一度だけ、私があの子のお父さんになった日の話をします。
あの子が、バイクに興味を持つようになったのは、
あなたを見送り、どれくらいが経った頃だったでしょうか。
中学生だったあの子は、
バイクのプラモデルを作っては眺め、
バイクの雑誌を眺め、
それはそれは、とても楽しそうに、
バイクのことを私に話して聞かせてくれたのでした。
あの頃の私は、
バイクに乗る自分を夢見るあの子を見守りながら、
ひとつだけ、決めていたことがありました。
あの子がバイクに乗れる年齢になったら、
絶対に、バイクに乗ることに反対しないということでした。
そうしてやって来た、あの子が16歳になる頃。
教習所へ通う手続きや、どこでバイクを買うのか。
着々と、ことが進む中、
バイクは危ない乗り物だという、
私の中でのその気持ちを消し去ることが出来ずに、
その時が近づけば、近づくほどに、
怖くなってしまったのでした。
あの子がバイクに乗ることに、
絶対に反対しないと決めていたはずなのに。
もしも、あなたが此処にいてくれたのなら、
私は、きっと、何も迷わずに、反対したのでしょう。
バイクは危ないから、辞めて欲しい と。
あの子のことを心配し、ただ、反対する私に、
あなたはきっと、こう言ったの。
気を付けて乗れば大丈夫だよ
じゃあさ、あの子が運転に慣れるまでは、
俺が必ず一緒に走るよ
そうだ
俺の後ろに、乗ってみる?
ヘルメットも買わなきゃね
どんなヘルメットがいい?
ピンクのヘルメットもあるんだよ
そう言って、あなたはきっと、
インターネットで、私が好みそうなヘルメットをみつけて、
私に見せてくれるの。
これ、可愛いと思わない?
そんなふうに、私も楽しみに出来るような提案をして、
あなたは、あの子の背中を押したのでしょう。
バイクの免許を取ったら、3人で、何処かに出掛けようね って。
そうして、きっと、
あなたは、私に掛けた魔法が解けないうちに、
私のヘルメットを購入し、
私が、更にバイクで出掛ける日を楽しみに出来るように仕向けたのでしょう。
あなたは、私の扱いが、とても上手だったもの。
あなたが此処にいてくれたのなら、
私は、母親であれば良かったのです。
私がどんなに反対しようとも、
バイクの世界を知るあなたが私を説得し、
あの子の背中を押してくれたのですから。
あの頃の私は、此処にいないあなたを想いながら、
どうしても、今だけは、
あの子のお父さんにならなければならないのだと思いました。
16歳からバイクの免許を取得出来るのは、国から与えられた権利です。
個人的観念から、
私が、あの子の権利を奪って良い訳がありません。
あの頃の私は、
バイクの免許を取るのか、取らないのか。
選ぶのは、あの子の権利なのだとも考えました。
たくさん悩みましたが、
私は、あの日、勇気を振り絞って、あの子の父親となり、
精一杯、あの子の背中を押しました。
そうして、
あの子は無事に、バイクの免許を取得し、
お気に入りのバイクに出会いました。
誕生日が早いあの子の友達は、先に免許を取得し、
あの子と一緒に走れる日を、とても楽しみに待っていてくれました。
バイクの免許を取ったことがきっかけで、
同年代から、歳の離れた年代まで、たくさんの人たちと出会い、
あの子の世界は、更に広がっていきました。
あの子が話して聞かせてくれるのは、
私の想像を遥かに超えた、素晴らしい世界。
私が知らない世界を楽しそうに語ってくれるあの子は、
いつでも、キラキラと瞳を輝かせ、
バイクに乗っていて良かったと話してくれます。
どんなに掃除をしても、すぐに散らかるあの子の部屋ですが、
散らかった部屋の片隅に、大切そうに置かれているのは、
いつもピカピカに磨かれた、バイクのヘルメット。
あの時、あの子のお父さんになることが出来て良かった。
あの子の部屋を眺めながら、
2年前、たった一度だけ、
私がお父さんになった日のことを思い出しました。