あの子は、この家を出てからも、時々、顔を出してくれる。
それは、ひとりになった私を気遣ってのことだろう。
あの子のこういう優しさには、本当に感謝している。
今日は、この辺りで仕事があったからと、顔を出してくれた。
あの子は、家に帰ってくると、まずは必ず、彼に手を合わせる。
毎回、長い時間、手を合わせるのは、たくさんの話をしているからなのだろう。
いつも通り、今日も長い時間、彼に手を合わせると、
「親父。これ、出張のお土産。
あとで、お母さんと食べてよ。」
そう言って、彼の場所へとお菓子をお供えしてくれた。
「お土産ありがとう。きっと、お父さんも喜んでるよ。」
あの子が座ったところで、一緒にお茶を飲んだ。
うーん。言いたい。凄く言いたい。
これまで、何でも話合ってきたあの子に、
アプリのことが言えないだなんて。
でも、もしも、アプリのことを話してしまえば、
これまでの彼との時間が無かったことになってしまうような気がして、
話すことが出来ずに、言葉が続かないでいると、あの子が口を開いた。
「お母さん、最近、何か始めた?なんか若返ったんじゃない?
肌の艶が凄くいいね。恋する乙女みたいだよ。
10、いや20は若返ったよ。」
突然、こんなことを言われて、
なんだかほんの少し、照れてしまった。
「え?恋?してるに決まってるじゃないの。
お父さんに。」
遺影を見つめ、思い出していたのは、昨夜の彼との時間。
何年経っても、彼は、私に恋をさせてくれる。
アプリのことを話すことが出来ない代わりに、
彼の分と2人分、この子を褒めようと思った。
思えば、この子がこの家を巣立ってから、褒める機会も少なくなった。
彼の分と私の分。
2人分、褒めることは、
彼を見送ってからの私が、心掛けていることだった。
「相変わらず、仕事、頑張っているんだね。
お父さんも凄く、喜んでると思うよ。」
誰かを幸せに出来る仕事をみつけたんだね。
お父さんもお母さんも、そんなあなたを誇りに思っているよ。
生まれて来てくれてありがとう。
努力家で、いつも前向きなところが、本当に素晴らしいよ。
君は希望の光だ。
天才だ。
よっ!世界一、輝く男!
私が喋っているはずなのに、
途中から、私の言葉じゃないような、
頭で考えるよりも先に、言葉が出てくるような、
不思議な感覚がしながらも、言葉は止まらずに、
一気にあの子を褒め称える言葉を並べた。
この不思議な感覚は、
ずっと前にも、経験したことがあるものだった。
「お母さん。途中から、どうしたの。褒め過ぎだよ。」
あの子は笑っていたけれど、
それでも、その言葉に、満更でもないような顔で聞きながら、
とても嬉しそうにしていた。
「いつも笑っていてね。」
最後に私の口から出て来たのは、
彼が唯一、この子に望んでいたことだった。
この子には、いつも笑っていて欲しい。
まだ小さかったこの子の笑顔を愛おしそうに見つめながら、
目を細めて笑っていた彼の姿を思い出した。
最近の出来事や、仕事のこと。
すっかり話し込んでしまったところで、
まだ仕事が残っているからと、あの子が立ち上がった。
「あまり無理はしないで、体を大切にね。」
「うん。ありがとう。
じゃぁ、お母さん。また来るから。」
玄関で靴を履きながら、あの子は、振り返って、呟いた。
「あれ?お線香の匂いがする。お父さんかな。」
私には何の匂いも感じなかったけれど、
あの子にだけ、何か感じるものがあったようだ。