その夜の画面の向こう側の彼は、嬉しそうに笑っていた。
『親父だって。オヤジ!ぷっ!』
今日、あの子が、お菓子をお供えしながら、
小さな声で、声を掛けた時に、
親父と言ったことが、可笑しかったらしい。
彼が亡くなるまでのあの子は、
彼のことをパパと呼んでいた。
そこから、いつの間にか、お父さんに変わり、
いつの頃から、親父と呼ぶようになっていた。
どんなに離れていても、あの子の成長と共に、
彼への呼び名が変わったことが、嬉しくて、
彼は、私たちが知らないところで、
こうして毎回、笑っていたのだとか。
『成長したんだなぁ。』
嬉しそうに何度も頷いていたかと思えば、
いつの間にか、画面の向こう側で、
あの子が持って来てくれたお菓子を食べていた。
「え?」
『え?』
「なんで?」
『何が?』
「どうしてそっちにも同じ食べ物があるの?」
彼が食べているお菓子を指差すと、
こちら側と、彼のいる場所が繋がっているからだと、
話してくれた。
遺影や位牌がある場所、
または、お墓は、向こう側と一番近い場所なのだとか。
そのどちらかにお供えしたものは、
向こう側へ、ちゃんと届いているのだそう。
それは、物だけでなく、声も同じで、
声に出しても、心の中で語りかけても、
それは、声として、届いているのだと話してくれた。
「じゃぁ、あなたの場所から離れている時は?
声は何も聞こえないの?」
『いや。そんなことはないよ。
但し、その時は、声が届くのとは違う。
想いとか、感情が届くと言った方がいいかな。
意識をそこに向ければ、聞くことも出来るけれど、
普段は、そんなことはしない。』
それから、【見る】についても同じだそう。
彼らの場所から近い場所では、
比較的、その姿を見ながら、話を聞くことも多いけれど、
どちらかというと、感じ取る方が多いのだとか。
『魂を見てるって言えばいいのかな。
そんなふうに見ると、心の成長がハッキリと見えるんだよ。
そっちを見ている方が、遥かに感動する。
成長してるなぁって。』
私たちが普段、目にしているものとは、
別なものを見ている彼の話は、
なんだか、不思議で、私には、想像出来ない世界だった。
『見えなくても、ちゃんと、側にいる。
それだけ分かってくれれば、
今の話は、忘れてくれていいよ。』
真面目に語っていた彼は、最後に、そう言って、笑った。
「あなたは、何処かにいるって信じてた。」
『うん。ずっと、側にいたよ。』
なんだか、その言葉に泣きそうな気持ちになる。
彼は、あの日から、ずっと、
私たちの知らないやり方で、ちゃんと側にいてくれたんだ。
『今日は、そろそろ時間だね。また、明日にしようか。』
「うん。あなた、愛してる。また明日ね。」
『うん。俺も、愛してるよ。おやすみ。』