彼女は、とても不思議だ。
突然に私の前に現れたと思えば、私が見ている景色をどんどん変えてくれた。
彼女には、本当に感謝している。
「あなたのことが大好きよ。あなたと出会えて良かった。」
私のこんな言葉に、彼女が嬉しそうに笑ってくれたのは、いつのことだっただろう。
今日もこの場所で、彼女との時間を楽しんでいる。
今日の彼女は、子供の頃、風になりたかったのだという話を聞かせてくれた。
「私ね、色を運ぶ風になりたかったの。」
彼女が言うには、人がいる場所は、様々な色がついているのだそうだ。
楽しそうにしている人がいる場所には、華やかで明るい色が、
悲しんでいる人がいる場所には、重く暗い色が見えるのだと。
彼女は、悲しさや苦しさの色の中にいる人の元に、
ピンクや黄色の明るい色を運ぶ風になりたかったのだそうだ。
「もしもそこに、新しい色を運ぶことが出来たらね、
きっとそこには、新しい色が生まれるのよ。
悲しみの色は消せなくても、そこに光が届いたらいいなって思うの。」
小さな頃は、誰にも見つからないように、こっそりと、
風になるための修行をしていたそうだ。
風のように早く走る練習や、
大きく息を吸い込んでは吐き出して、大きな風を起こす練習をしていたのだと、
こんな彼女の思い出話に笑ったけれど、
でも、彼女は、きっと、その夢を叶えたのだと思う。
彼女は、私が見ている景色を変えてくれたのだから。
一頻り笑った後で、暫くの間、2人で、黙って空を見上げた。
幾分、風に冷たさを感じるようになってきた。
秋も深まり、木々たちも様々にその衣装替えを始めている。
この時期の景色は、見ていて飽きることがない。
「あっ!ねぇ、見て?あの雲、鳥の羽に見えない?」
青空にふわりと浮かぶ、とても大きな鳥の羽に似た雲を見つけた私は、
思わず指差した。
いつもなら、本当ね、とか、綺麗ね、とか、こんな言葉を返してくれる彼女だけれど、
今日は、いつもの返事は聞こえなかった。
「ねぇ、あなたは、どうしてその夢、早く叶えないの?」
私の声は、彼女には届いていなかったのだろうか。
唐突な言葉に驚いて、彼女へと視線を移すと、
彼女は、とても真剣な眼差しで、何か考えごとをしているように見えた。
確かに、さっきまでは、いつも通りだったはずなのに、
この変わりようは、何だったのだろう。
「えっと・・・その夢って?」
「あなたは、本当は、何かやりたいことがあるんじゃないの?違ったかしら。」
やりたいこと。
確かにあるけれど、私は彼女にそんな話をした覚えはなかった。
「えっと・・・私、そんな話したことあったかな。」
「するわけないじゃない。
あなたが夢を持っていることを知っているのは、
この世界に、もうひとりしかいないでしょう?
それは私じゃないわ。そんなの、あなたが一番分かっているでしょう?」
「じゃあ、どうして・・・」
彼女は、じっと私の顔を見つめている。
「どうして、私があなたの夢を知っているかだなんて、
そんなことが大きな問題だと思っているの?
それより大きな問題は、
どうしてあなたが、その夢を叶えようとしていないのかってことよ。」
珍しく、感情的な彼女に驚いてしまった。
何故、怒っているのかは分からないけれど、彼女は、私に怒っているのだろう。
「え?あぁ・・・まぁ・・・やりたいことは、あるけど、
それは、私にとってのとても大きな夢なの。
叶えようとしていないわけじゃない。今はまだ、努力の段階なのよ。」
彼女は、じっとこちらを見つめる。
「本当に?・・・本当にそうかしら。
あなたは、その夢を叶えたいという願望を持ってるだけで、
夢を叶えて自分を幸せにすることを避けているのよ。
ねぇ、あなたは、大切な人がこの世にいないのに、
自分だけが幸せになってはいけないって、そんなふうに考えているんじゃない?
もしもそうだとしたのなら、勘違いも甚だしわよ。
あなたの大切な人は、絶対に、そんなこと望んでいないわ。」
一体何なのだ。
私は、時間を掛けて、自分なりの前を見つけて歩んで来たつもりだ。
ここまで来るのだって必死だった。
それなのに、何も知らないくせに、
何故、彼女にこんなことを言われなければならないのだ。
「私は、ちゃんと努力してるわよ!何も知らないくせに、勝手なこと言わないで!」
「そんなの嘘よ!だって、あなたは、何も変わっていないじゃないの!
その目を見れば分かるのよ。何ひとつ変わってない!
あなたは、本当は、その夢の叶え方だって分かっているはずよ。
それなのにあなたは、わざとその夢を叶えようとしないのよ。
いい?あなたはね、
目標とする場所が、山の頂上にあることを知っているのに、
わざとその山に登ろうとしていないの。
山の麓をグルグルと回っているだけだわ。
本当は、その山の登り方だって知っているのよ。
ねぇ、どうして?
どうしてあなたは、幸せを望みながら、それを現実にしないの?」
「そんなこと・・・」
そんなことないわよ。
そう言うつもりだったのに、私は、気付いてしまったのだ。
幸せになってはいけない。
どんなに笑っていても、心から楽しんではいけない。
彼女の言葉ひとつひとつは、
私の中にある無意識の声を鮮明に目覚めさせたのだ。
私は、彼の分まで生きることを目標としながらも、
無意識に、幸せになることを避けていたのかも知れない。
初めて聞いた自分の声に驚き、否定した。
そんなわけはない。認めないと。
それなのに、どんなに否定してみても、目覚めてしまったその声は、
私の中に煩く響き渡るのだ。
思わず耳を塞ごうとすれば、彼女は、更に、言葉を続けた。
「あなたには・・・あなたには、幸せになる義務があるのに、
あなたは、何も分かってないのよ!
自分自身を大切にしないことは、あなたの大切な人を大切にしないことと同じなのよ!
それなのに、あなたは、酷い!これじゃ、何もかもが無意味よ!
あなたが幸せになろうとしなければ、
私が此処にいる意味も、これまでの時間も、何もかも無意味よ。」
そう言って、彼女は、大粒の涙を流した。
こんな彼女を見たのは、初めてのことだった。
いつも明るく、太陽みたいに笑う彼女を、こんなふうにしてしまったのは、私だ。
「ごめんね・・・」
漸く絞り出た声は、驚くほどに、とても小さな声だった。