あなたへ
前になど進みたくはないと、
あの夏にいるあなたに必死に手を伸ばしては、
なんとかそこに止まろうと、後ろ向きに座り込んだはずだったのに、
呼吸をする度に、
瞬きをする度に、
この世界の時間に引き摺られるようにして、
あの夏からの私の時間は、皆と同じように過ぎて行きました。
私はただ、家族3人で一緒にいたいだけだったのに、
この世界に流れる時間を、私はまだ、受け入れてはいなかったのに、
どんなに手を伸ばしても、
あの夏にいるあなたに、指先さえも触れることが許されないままに。
どんなにあの夏にいるあなたに手を伸ばしても、
そこに止まることが出来なかった私が、
密かに、この世界の中に、
家族3人の形を残したのは、買い物カゴの中でした。
買い物をする時は、いつでも家族3人分。
買い物カゴの中を覗き込んでは、
そこに家族3人の形があるかどうかを確認する私以外、
きっと誰も気になど留めてはいなかったでしょう。
私だけが拘り続けたその中には、
私だけが知る幸せの形が存在し続けました。
この世界に存在する家族3人の形。
そこから卒業するのは、あの子が此処から巣立った時なのだと、
そう決めていた私は、
あの夏からずっと、
そこにある掛け替えのない形を大切に、歩み続けて来ました。
あの子が此処から巣立ち、
私にも、前へと歩む時がやって来て、
家族3人分の買い物カゴの中身から卒業し、
あなたへのお供え物と、
自分の食べられる分だけを入れた買い物カゴを持って、
レジに並ぶ私へと変わりました。
ほんの少し前までは、あんなに大荷物を抱えていたのにね。
随分と軽く感じるエコバッグを片手に、
あの夏から前へと歩むことを拒み続けた、
この、8年と半年余りを振り返りました。
家族3人分に拘った食材たちは、
食べ切るまでに、少し時間が掛かっていたはずなのに、
あの子の成長と共に、
それが我が家にとっての丁度良い量へと変わり、
やがて、3人分の買い物をしているにも関わらず、
それらはあっという間に食べ尽くされ、買い物へ行く回数が増えて。
過去だったはずの当たり前の形は、
我が家にとっての新しい形での当たり前へと変わり、
家族3人分に拘った買い物カゴの中を見つめながら、
胸の奥に感じていたはずの痛みは、
やがて癒えていったのでした。
今、此処に見えるひとり分の食材を入れた買い物カゴの中身にも、
痛みを感じることはありません。
随分と、短時間になった買い物の時間も、
軽い買い物カゴを持って、レジに並ぶことも、
僅かな食材を入れたスカスカなエコバッグを運ぶ時も、
ほんの僅かな痛みさえ感じることがないままに、
私は、颯爽と荷物を運んでいます。
こうして振り返ってみれば、
この8年と半年余りの時間を掛けて、あの子は、
ゆっくり、ゆっくりと、
私に見える景色を変えてくれていたのだと思いました。
その時が来たら、
私がちゃんと、前へと歩み出せるようにと。
私だけのペースで、ゆっくりと歩みながら、
やがて見つける景色は、
いつでも、あの夏の私が想像もしていなかった景色です。
私は、あなただけでなく、
あの子にもまたしっかりと守られながら、
新しい一歩を、
何の躊躇もなく踏み出すことが出来たのだと思いました。
いつか、あの子が泊り掛けで帰って来れる時が来たのなら、
私はまた、3人分に該当する量の食材を買い物カゴの中に入れるのでしょう。
だって、あの子は本当によく食べるもの。
その時には、3人分の食材が入った買い物カゴの中身にも、
肩に掛けたエコバッグの重さにも、懐かしさを感じながら、
私はきっと、思わず笑みを溢して、思い浮かべるのよ。
あの子は、どんな顔で、
私が作った料理を食べてくれるのかしらって。
いつか、その日が来ることを楽しみに、
今は、随分と軽くなった買い物カゴと共に、
私なりの新たな一歩を、
しっかりと歩んでみたいと思います。