あなたへ
その試練は、帰宅早々、突然にやって来ました。
いつも通り、早い流れに乗って1日を過ごした私は、
あなたにただいまの声を掛けながら、荷物を下ろして、ほっと一息。
つい先程、あなたへの行ってきますの挨拶をしたような気がするにも関わらず、
すっかりと日が暮れた窓の外を確認しながら、
今日もまた、1日が終わろうとしていることを感じたのでした。
今日もいつも通り。
そんな1日の終わりを迎える筈だったのに、
突然に私の目の端に黒いそれが映ったのは、
丁度、カーテンを閉めようとした時でした。
え?何?
思わず飛び退いて、目の端に捉えた黒い物体に焦点を当ててみれば、
カメムシらしき生き物が、微動だにせずに窓に止まっていたのです。
カメムシらしき。
これ以上、表現する術がないのは、
生き物であるのか、それとも、それ以外なのか。
その確認をするだけで、精一杯だったからです。
もしもあれがカメムシだったと言うのなら、
これまでには見たこともないほどの大きさのものでした。
どうしよう・・・
どうしよう・・・
突然のカメムシらしき生き物の出現に、
早い流れに乗って歩んだ1日の疲れなど、すっかりと忘れて、
部屋の中を歩き回りながら、
先ずは、ティッシュペーパーを数枚取ってみましたが、
それでカメムシらしき生き物を掴む勇気が出なかったのは、
やはり、その大きさが、私の恐怖心を倍増させたからでした。
ねぇ、あなた、虫がいるの
取って?
あなたにこんなお願いしてみても、
窓にいるその姿が消えることはなく、
まるで、ここが自分の居場所であると言わんばかりに、
相変わらず、微動だにしないのです。
ティッシュペーパーを持ってはみたものの、
この後どうしたら良いのかが分からずに、そっとカーテンを閉めてみました。
見なかったことにしてみよう。
一度はこんな作戦に出た私ですが、
これでは、明日も明後日も、
恐怖に怯えながら暮らすことになってしまうのでしょう。
ティッシュペーパーで取るのが嫌ならば、殺虫剤。
こんな方法も思いつきましたが、
私の中に蘇ったのは、あの、Gとの戦いの日です。
あの時のように、もしも私に向かって来たのなら、
私はどうすれば良いのでしょうか。
だってもう、私の盾となり、勇敢に戦ってくれるあの子戦士は、
此処にはいないのですから。
どうするべきなのか。
一度は閉めたカーテンをそっと開けて、
カメムシらしき生き物を視界の端に捉えたまま、考えました。
そうして私が思いついたのは、
ビニール袋を虫の上から被せて捕獲するという方法でした。
これなら、ティッシュペーパー越しにその感触を知ることもなく、
そして相手を傷付けることもなく、
お互いに良い形でのお別れが出来ると思いました。
とは言え、ビニール袋を被せるということは、
相手に、より近付かなければなりません。
これは、今回の私にとっての超えなくてはならない大きな試練でした。
ティッシュペーパーと、ビニール袋を握り締め、直立不動となった私と、
微動だにしないカメムシらしき生き物。
こんな絵面のまま、どれくらいの時間が過ぎたでしょうか。
このままでは埒があきません。
そこで私が思いついたのは、カメムシらしき生き物へ、
先ずは、話し掛けてみる、という方法でした。
外に出してあげる
絶対に傷付けないから、そこから動かないで?
相変わらずに微動だにしないその姿を確認すると、
私は勇気を出して接近し、
そっとカメムシらしき生き物へビニール袋を被せることに成功しました。
そうして私は、先程した約束を守り、
カメムシらしき生き物を外へと連れて行き、光の速さで窓を閉めたのでした。
あの子が巣立ち、ひとつひとつ、
ひとりで生きるための試練へと挑んで来ましたが、
思えば、虫との遭遇は、あの子が巣立ってから初めてのことでした。
あの子が巣立ってから、2番目の夏が過ぎ、
まさか、随分と肌寒くなった今になって、
虫との遭遇という試練に立ち向かうことになるとは思ってもいませんでしたが、
今回、カメムシらしき生き物との遭遇により、
私は新たな技を身に付けることが出来ました。
これでまた一歩、無敵な私へと近付いたはずだと、
ほんの少しだけ、誇らしい気持ちを感じた私ですが、
きっと本当は、私はあなたに守られながら、
この試練を乗り越えることが出来たのでしょう。
だって、袋を被せれば間も無くに、
カメムシらしき生き物は、ノソノソと自分から袋の中へと這い上がり、
外へ出すまでの間、静かに待っていてくれたのですから。
きっと、私のお願いを静かに聞き入れ、助けてくれたあなた。
ありがとう。