あなたへ
なんの前触れもなく、突然にあの夏の辛かった出来事を思い出し、
これまでにはなかった視点を見つけることが出来たのは、これで幾つ目だろう。
それはいつでも突然にやって来るけれど、その時というのは、きっと、
胸の奥に痛みを感じながらも、
辛かった記憶と向き合う準備が整ったからこそ、やって来るものなのでしょう。
そっか
きっと、あの時には、そういう意味があったんだね
小さく呟く私の中へと、鮮明に蘇っていたのは、
あの、辛く苦しい時間に、私が見たものでした。
あなたの意識が此処になくなり、
ただ、その手の温もりだけを私たちに与え続けてくれたあの頃のあなたは、
二度も心臓が止まりかけました。
そう。一度目は、
目を閉じたあなたの側へと寄り添って、その手の温もりを感じていたあの日。
少しだけ休憩をしようかって、あなたの家族から声を掛けられて、
院内のコンビニエンスストアで買い物をしていた時のことでした。
突然に、院内アナウンスが流れたの。
直ぐにICUまでお戻りくださいと。
ただならぬ気配を感じながら、慌ててICUへと戻れば、
物々しい雰囲気に、私は思わずギュッと手を握り締めて。
やがて安定したあなたの側へ寄り添って、あなたのその温もりを感じながら、
私は何故だか思ったのでした。
私たちが病院に居たら、きっとあなたの心臓は止まってしまうのだと。
本当は、ずっとあなたの側に寄り添っていたいけれど、
本当は、ずっとその手の温もりを感じていたいけれど、
私たちが此処にいたらきっとまた、あなたの心臓が止まってしまう。
あなたなら大丈夫。
絶対に大丈夫。
だから、帰る。
あれからの私は、毎日病院へと通いながらも、
しっかりとあなたの手を握り締めては、
出来るだけ、短い時間をあなたと過ごし、足早に病院を後にするようになりました。
また明日ねって、その大きな手をしっかりと握り締めて、明日の約束をして。
だって、あなたに生きていて欲しかったから。
それなのに、あなたの側へと寄り添う僅かな時間に、
二度目がやって来たのです。
そう。あの、
電気ショックが施される音を、部屋の外で泣きながら聞いたあの日です。
面会時間は決まっています。
決められた時間の中での、
出来るだけ僅かな時間だけをあなたの側にいた筈だったのに、
私たちの目の前で、あの出来事が起こったのです。
あの頃、何故だか感じた、
私たちが病院に居たら、あなたの心臓が止まってしまうという、
あの予感のようなものは、きっと本物だったのでしょう。
だって、あなたが息を引き取るあの日まで、
あなたの容態の急変についての電話など、
一度も掛かってきたことはありませんでしたから。
何の前触れもなく突然に蘇ったあの夏の記憶を見つめた私は、
不意に気が付いたのです。
あれは、見せられたのだと。
偶然のように思えても、きっと全ては必然。
例えば、目の前でそれを見ることと、
起こった出来事の話を聞くことでは、印象が全く異なるものでしょう。
世の中には、見ない方が良いものがあります。
知らない方が、幸せでいられる物事があります。
知ってしまえばもう、元に戻ることは出来ないけれど、
知らない方が良かった物事と向き合い続けることは、
後の人生の中で、
どれだけの深い意味があることであったのかに、
気付く瞬間が訪れるものなのかも知れません。
あなたを見送り、死に対する恐怖心がなくなり、
新しい明日なんて、もういらないと泣きながら眠りに就いた日々を過ごしながらも、
私の脳裏にしっかりと焼き付いていたのは、
あなたが懸命に生きようとしていたあの姿でした。
たった一度だけ、私は恐らく、
最も死に近い場所まで行ってしまったけれど、
こうして振り返ってみれば、
あれだけの苦しい時間を過ごしながらも、
あの一度だけで済んだのだと、
こんなふうに言い換えることも出来るのかも知れません。
私の側へと寄り添い続けてくれたあの子と、
そして、生きることを強く望んだあなたの姿が、
私を力強く守ってくれていたのだと思いました。
心臓マッサージをされるあなたの姿も、
電気ショックを施されるのあの音も、
本当は知りたくなんてなかったけれど、
あの夏に見せられたあなたの力強く生きようとした姿は、
ほんの少しだけ見方を変えてみれば、
深い傷にも見えるお守りだったのかも知れません。
あの頃の私たちが、あなたに生きて欲しいと強く望んだように、
あなたもまた、
私たちに同じことを望んでくれていたのかも知れませんね。
どんなことがあっても、生きて欲しいと。
最後の力を振り絞り、私たちの元へと戻ってきてくれた、
あの日のあなたの手の温もりを思い出してみます。
あなたの手は、大きくて、とても温かで。
ねぇ、あなた
どうして?
どうしてなの?
目を閉じて、あの日のあなたに逢いに行けば、
不意に私の手を握り返してくれたかと思えば、
あなたは突然に目を覚まして、優しく微笑んでくれるから、
思わず零れ落ちた涙をそのままに。
そう。本当はね、あの日の私は、こんな未来を望んでいたよ。
いつか、こんなふうに、
私の手を握り返してくれる日が来る筈だからって、
本当はね、ずっと待っていたんだよ。
あの日の記憶にはない筈のあなたの笑顔が、
あまりにも穏やかで、優しい顔をしているから、
思わず、あなたの頬に手を伸ばして。
何故だか、突然に瞼の向こう側に見えた私が望んだあなたの姿は、
今のあなたが持つその力で、
私に見せてくれたものだったのでしょうか。
私の手を握り返してくれたあなたの手の感触も、その穏やかな笑顔も、
きっと忘れないよ。
幸せな瞬間を見せてくれて、ありがとう。
あなたに逢いたい。
とてもあなたに逢いたいけれど、
でも、私ね、生きたい。
ちゃんとこの人生、生きるから。
だから、きっと何処かで見ていてね。