あなたへ
中学生だったあの子がくれたクマのぬいぐるみを見つめながら、
思い出していたのは、
あの頃のあの子が見せてくれた親孝行でした。
ずっと、胸の中へと仕舞っていたあの日のことを、
今日は、あなたにも話してみたいと思います。
あの日の私たちが話をしていたのは、将来についてでした。
私の元から巣立ち、社会人になって、
やがて結婚をして、子供が産まれて。
そんな自分の未来を思い描いたあの日のあの子は言いました。
俺が結婚したらさ、お母さんも一緒に暮らそうねって。
一度は、ひとり暮らしをしてみたいのだと、
そんな将来を思い描いたあの子だったけれど、
そんな時を経て、やがて、結婚をする時が来たのなら、
その時は、また一緒に暮らそうと言ってくれたのです。
あの子の気持ちはとても嬉しかったけれど、
でも、と思ってしまったのは、お嫁さんになる方の気持ちでした。
嬉しいけれど、お嫁さんになる人の気持ちもあるからね
あの日の私は、結婚をしたのなら、
その人との新しい家族の形を作って欲しいことを伝えたのでした。
私の結婚生活は、あなたとふたりという形から始まりました。
育った環境が違えば、価値観も、生活リズムも、何もかもが違った私たち。
互いに少しずつ、少しずつ、すり合わせをしながら、
私たちは私たちだけの家族の形を作って行きました。
それはきっと、唯一無二の家族の形。
そんなふうに、あの子にも、
大切な人と2人で作る家庭の形を持って欲しいと思いました。
それから、そう。
嫁姑問題、とでも言いましょうか。
お母さんは、俺のお嫁さんになる人に意地悪なんてしないでしょう?って、
あの日のあの子は、こんなふうに言ってくれましたが、
互いの持つ価値観などの違いから、意図せぬところで、
相手に嫌な思いをさせてしまう場面もきっとあるのでしょう。
私は、あの子の大切な相手に、
そんな思いをさせることは、したくありません。
距離感って、きっと、とても大切なものなのだと私は思うのです。
私の話を聞き終えたあの日のあの子は、言いました。
じゃあさ、同じ敷地内にお母さんの家を建ててあげる
それでさ、もしも結婚相手のお父さんとお母さんが良いよって言ってくれたら、
その人たちの住む家も建てるの
俺とお嫁さんの家が真ん中で、
その両側に、2人の親の家がそれぞれにあるんだよ
同じ敷地の中に、3軒の家があってさ
遊びに行ったり来たり出来るんだ
そんなふうにみんなで一緒に暮らせたら、絶対に楽しいと思うよって。
中学生だったあの子が思い描いた未来は、とても自由で、楽しそうで。
なんだか細かいことなど、どうでも良くなって、
あの日の私は、あの子と一緒に、遠い未来に思いを馳せたのでした。
時々には、皆で食事をしたり、談笑したり。
そこに流れるのは、きっと穏やかで、楽しい日々で。
そうしてもしも、孫にも恵まれたのなら、
更に賑やかで、笑いの絶えない日々となるのでしょう。
そこにいる私もきっと、
空を眺めては、あなたを想い、
時々には、寂しさを感じることもあるけれど、
でもきっと、それは今の私が知らない、想う、の形へと変わっていて、
そこにいる私は、
心から笑うことが出来ているのかも知れないなって。
あの子と一緒に、とても楽しそうな遠い未来に思いを馳せて。
そうして私は、思ったのでした。
もう、十分って。
今、目の前にいるあの子は、
ずっと先の未来の私が、ひとりで寂しさを感じないように、
ずっと、あの子の側で楽しい日々を過ごせるようにと、
素敵な未来を私に見せてくれました。
此処に流れるこの時間こそが、
あの子が私にくれた親孝行なのだと思いました。
あの子がこんな想いを持ってくれたことだけで、もう十分。
あの子があの子らしく、自分の道を歩んで行ってくれたらそれで良い。
あの子と笑い合った時間の最後に、
そっと、自分の中でこう締め括ると、
私は、あの子と笑い合ったあの時間を、大切に胸の中へと収めたのでした。
強くならなければいけないのだと、自分を奮い立たせて、
必死にもがいていたあの頃の私は、
あれから時間を掛けて、
ひとりで元気に歩める私へと成長することが出来ました。
あの頃の私が、密かに思い描いた未来の私は、ちゃんと此処にいます。
今の私なら、此処から先も、きっとひとりで大丈夫。
きっといつかまた、
中学生だったあの子がくれた親孝行を大切に反芻しながら、
あの子の歩む道がいつでも明るく照らされていますようにと、
私は、遠くで活躍するあの子の幸せを祈り続けることが出来るのでしょう。