あなたへ
何の脈絡もなく、不意に私の中へと蘇ったのは、
あなたと出会う前の出来事でした。
そう言えば、あの時。
記憶を辿り、様々に考えを巡らせれば、
私の中へと聞こえたような気がしたのは、いつかのあなたの言葉でした。
俺は生きているんじゃなくて、生かされているのだと。
今日は、あなたと出会う前のあの日の出来事を、
あなたにも話してみたいと思います。
そう。あれは丁度、大人になることはきっとつまらないことなのだと、
そんなふうに考えていたあの頃のことでした。
あの日は、友人に、ドライブへ連れて行って貰った日でした。
あの日の天気は雨。
そのせいなのか、それとも、時間帯が関係していたのか、
他に車の通りもなくて、なんだか私には、
この世界が貸し切りの世界のようにも見えていました。
真っ直ぐに続く広い道路。
下り坂を下り始めた時にそれは起きました。
突然に車がスリップしたかと思えば、
スリップした車は、どんどん加速し続け、猛スピードのままで、
フェンスへと突っ込んだのでした。
危険な瞬間には、スローモーションに感じることがあるのだと、
こんな話を聞いたことはありましたが、それは本当だったようです。
あの時の私は、確かに、
スローモーションで再生される映像を見ていました。
スローモーションの中、
ゆっくりと体が大きく揺れて、
このままじゃ頭がぶつかってしまうと考えたことと、
あまり痛くないと良いなと考えたことが、
今でも、やけに鮮明に残っています。
その後の私は恐らく一瞬、気を失っていたのだと思います。
遠くから聞こえる友人の声に、目を覚ました私が辺りを見回すと、
窓ガラスは粉々に割れていて、
手に持っていた筈のバッグは後部座席へと飛ばされていて。
見たこともないような恐ろしい光景がそこには広がっていたのです。
動揺する私たちを助けて下さったのは、近隣の方でした。
あの時、大破した車を見たその方からは、
よく生きていたねと、そんなふうに声を掛けられたのでした。
幸いなことに、車に乗っていた以外の誰かを傷付けることもなく、
最悪な状態でありながらも、
最小限で済んだ事故だったと言うことも出来るのかも知れません。
体に痛みはありながらも、歩ける状態であった私たちでしたが、
警察の方からは、恐らくはフェンスがクッションとなり、
助かったのだろうと、こんな言葉がありました。
全てがスローモーションに見えるだなんて、
後にも先にも、あの時一度切りの、恐ろしい出来事であった筈なのに、
こうして記憶が蘇るまで、
そんな恐ろしいことがあったことすら忘れてしまっていたのは、
何故だったのでしょうか。
特に関連付ける何かを見たわけでもないにも関わらず、
突然に蘇った記憶を見つめてみれば、
何故これまで、
あの日のことを思い出すこともなく此処までを歩んで来たのかが、
なんだか不思議でなりませんが、こうして蘇った記憶を辿ってみれば、
もしも、あの日の出来事に、ほんの少しの違いがあったとしたのなら、
私は、あなたと出会う前に、
この世界を去っていたと言うことが出来るのでしょう。
こうして考えてみればやはり、いつかのあなたが言っていたように、
あの時の私もまた、生かされた、という見方をすることが出来るのかも知れません。
あの日の事故が、私の生と死を分ける出来事であったとすれば、
私は、あれから先の未来で、あなたと出会うために、
生かされたということになるのでしょう。
私は、あれから先で、あなたと出会い、
やがてあなたと家族になって、あの子が生まれて来てくれました。
ほんの少しだけ、視点を変えて見るのであれば、
あれから先であなたと出会い、そして、
あの子がこの世界に誕生出来るように、
あの時、私は生かされたと言うことも出来るのかも知れません。
あなたの分まで、あの子の成長を見守り、
巣立ちの日がやって来るまで、
毎日、毎日、あの子に2人分の愛情を掛けて育てるために。
そして、此処から巣立ったあの子の帰る場所となるために。
そんなふうに考えることも出来るのかも知れません。
あの日の事故から、随分と長い月日が流れました。
長い月日を掛けて歩んだ道のりを、
端的に纏められるようになった時に初めて、
運命と分かる一本の線が見えるものなのかも知れませんね。
今の私には、納得の行かない出来事も、
分からないままの問題も山積みだけれど、
きっと、此処からずっとずっと先へと歩んで、
その道のりを端的に纏められるようになった時にまた、
新たな何かが見えて来るのでしょう。
人生とは、やはりとても不思議なものです。
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