長い散歩から帰って来た私は、早速、キッチンへと立つことにした。
辺りは少しずつ、暗くなり始めている。
「今日のご飯は何?」
キッチンに立てば聞こえて来るのは、こんなあの子の声だ。
今夜は、唐揚げを作ることに決めていた。
実は、昨日のうちに下ごしらえをしておいたのだ。
私が答える前に、冷蔵庫を確認したあの子から歓声が上がる。
「唐揚げ?唐揚げでしょう?やった!」
唐揚げは、あの子の大好物なのだ。
唐揚げの日は、必ずあの子は、こんなふうに喜んでくれる。
かつては、私の日常生活の一部にあった筈のあの子の笑顔が、
今の私には、余計に愛おしく感じられる。
それと同時に、時々、考えてしまうのだ。
此処から巣立ったあの子に、私はあと何度くらい、
こうして唐揚げを作ってあげることが出来るのだろうかと。
そうして、我が家では、あの子が帰省する度に、
唐揚げを作ることが、恒例ともなって行った。
あの子が帰省する度に、唐揚げを作るのが恒例であるならば、
唐揚げが揚がる頃になると、
すぐ側に爪楊枝を持ったあの子がスタンバイするのもまた、我が家の恒例とも呼べる。
今日も例外なく、あの子がキッチンへとやって来た。
「美味しそうに揚がってるねぇ。」
今日のあの子は、爪楊枝を2本持っている。
早速、揚がったばかりの唐揚げに爪楊枝を刺すと、1本を夫に渡していた。
夫は、食べることは出来ないけれど、
それでも、あの子が渡した唐揚げを嬉しそうに受け取って、香りを楽しんでいる。
やがて、あの子の口に唐揚げを運んで、あの子に食べさせると、
楽しそうに笑っていた。
夫はもう、食べることも、飲むことも出来ない。
それなのに、こんな2人を見ていると、つい気持ちが揺らいでしまう。
もしもこのまま、家族3人で暮らすことが出来たのなら、
夫が亡くなってしまってからの10年間に得る筈だった大切なものを、
取り戻すことが出来るのではないかと、こんな考えが頭を過ってしまう。
分かってる。夫の生は、もう此処にはない。
あの子にはあの子が歩むべき道があり、私にもまた、それがある。
全部、分かってる。
分かっているのに、どうしてこんなにも、胸が痛むのだろう。
どうして、何度も、何度も、色々な方向に気持ちが揺らいでしまうのだろう。
私は、ちゃんと決めた筈だ。
心の形を整えるかのように大きく深呼吸をすれば、
いつの間にか、2人がすぐ側に立っていて、
唐揚げをとても褒めてくれた。凄く美味しいと。
ご飯の時間が楽しみだと、2人は笑っている。
あぁ、そっか。私は今、とても幸せなんだ。
時間を止めておきたいと思ってしまうくらいに、私は今、幸せの時間の中にいるのだ。
今、目の前にある笑顔に笑い返せば、ふっと力が抜けた。
私は、大切な瞬間ばかりが散りばめられたこの時間の中を、
大切に、大切に過ごして行けばいい。
夫にとっての前が何処で、
あの子にとっての前が何処で、
自分にとっての前が何処であるのか、
私は全部、ちゃんと分かっているのだから。