「貴女を一目見た時にね。とても素敵な人だなって思ったの。
こんな人がうちで働いてくれたら、毎日がもっと楽しくなるだろうなって。
それで勇気を出して声を掛けたのよ。
あの時、勇気を出して声を掛けて本当に良かった。」
彼女が弁当屋の奥さんからこんな言葉を掛けてもらったのは、
ここで働くようになってから、随分と経ったある日のことだった。
この日、彼女は、弁当屋のご夫婦から事務所に呼ばれていた。
「実は、2店舗目を考えているんだけれどーー」
こう切り出したのは、ご主人だった。
元々、この弁当屋は、夫婦一代で終わりにするつもりで始めた弁当屋だったそうだ。
どう生きるのが自分たちにとって幸せであるのかという気持ちと向き合って、
弁当屋を始める決断をしたけれど、
子供たちに自分たちの夢を押し付けるつもりはなかった。
自分たちはもう若くはない。だから、小さく初めて、小さいままで終わりにしよう。
こんなふうに決めて始めたつもりだったけれど。
「実は三男が、後を継ぎたいと言ってくれたんだ。」
料理とは程遠い世界へと飛び込んだ筈の彼だったけれど、
日々の生活の中で、ある日、気が付いたのだそうだ。
自分は、誰かのために弁当を作ることが何よりも楽しくて、幸せなのだと。
「料理をすることは勿論、好きなんだけれど、俺は、お弁当を作るのが好きなんだ。
俺にとって、お弁当ってのは、
食べるもの、じゃなくて、伝えるもの、だと思っているんだ。
だってさ、朝早く起きて、まだ眠たい目をこすりながら作るんだぜ?
彩り考えて、栄養バランス気にして、相手の好き嫌いもちゃんと考えて。
そりゃ手間はかかるよ。
でも、その全部が、あなたを想っています、っていうメッセージだと思うんだ。
お弁当箱ってさ、ただの容器じゃないよ。
あれはね、小さな宝箱だ。
中には栄養も、優しさも、応援も、全部、詰まっているんだ。」
先日、後を継ぎたいという意思を伝えるために帰って来た息子さんは、
ご夫婦にこんなふうに熱く語ったのだそうだ。
何気ない日常の中には、奇跡のような偶然がたくさん詰まっている。
お弁当に対して、彼が情熱を傾けるようになったのは、
お付き合いをしていた彼女のために、
お弁当を作ったことが始まりだったのだそうだ。
残念ながら、その後、彼女とはお別れしてしまったのだそうだが、
彼女はきっと、自分に夢を持たせるために出会ってくれた存在だったのだと、
彼はこんなふうに解釈しているのだそうだ。
「あの時、息子がね、こうも言ったんだよ。
俺が将来辿り着く夢を、父さんと母さんが、先に叶えておいてくれたって。
だから俺は、ちょっとだけ近道をして夢を叶えることが出来るんだって。
人生は不思議だよね。
俺たちが自分たちの幸せを追求した結果が、
そのまま、我が子の夢を叶える手伝いにもなっていたのだから。
思い切って、弁当屋を始めてみて本当に良かったよ。」
そうして語られたのは、今後の流れについてだった。
来年には、勉強と経験のために、三男が帰って来るのだそうだ。
これまでとは違った視点から先を考えるようになったご夫婦は、
2店舗目を考えるようになった。
遠方から態々足を運んでくれる人も多いという理由からだった。
この頃には、この店の良い噂が、どんどん広がり、
気が付けば、たくさんの人たちから愛される弁当屋になっていたのだ。
「それでね、貴女に2店舗目の店長を任せたいと思うんだけれど、どうかな。
場所もまだ決まっていないし、時間はまだあるから、考えてみて欲しい。」
ご主人からのこんな言葉に、彼女は、是非、引き受けたいと思った。
でも、と思ったのは、家族のことだった。
この頃、上の子は高校3年生、下の子は、中学3年生に上がったばかりだった。
2人ともがとても大事な時期だ。どう考えても、タイミングが悪過ぎる。
これまでの彼女は、4時間から5時間程の勤務だった。
店長という役に就けばこれまで通りの働き方というわけには行かないだろう。
これまで、家のこととのバランスが取れていたのは、
短時間での勤務だったからなのかも知れない。
本当はやってみたい。でも、今回は諦めた方が良いのかも知れない。
数日間、悩んだ彼女は、こんなふうに決断したけれど。
その日の夕方のことだった。
彼女がいつも通り、食事の支度をしていると、子供たちがキッチンへとやって来た。
「お母さん、何か悩んでいるでしょう?私たちに話してよ。」
これは、上の子ーーー彼女の娘の声だ。
「え?何も悩んでないよ。どうして?」
「いや、嘘だね!絶対に何かある!家族なのに嘘をつくの?」
これは、下の子ーーー彼女の息子の声。
彼女は、どんなふうに伝えるのかを少し考えてから、
新店舗の店長を任せたいという話を貰ったけれど、断ろうと思うと、簡潔に伝えた。
「どうして?」
娘からのこんな言葉には、自分には荷が重いと、答えたのだけれど。
「嘘だ!」
こんな言葉を放ったのは、息子だった。
「俺たちのために自分のやりたいこと諦めるとか、絶対に辞めてよね!
俺たちはお母さんを不幸にするために生まれて来たわけじゃないよ。」
「不幸だなんて、思ってないよ。私はあなたたちがいるから幸せなのよ。」
息子からの言葉にこう答えながらも、
彼女は、子供達の成長を感じずにはいられなかった。
「大きくなったのね。」
小さく呟けば、次に口を開いたのは、娘だった。
「そう。私たちは大きくなったの。やがてはこの家から出て行くのよ。
いつまでも小さな子供じゃない。私たちはちゃんと育ったよ。
だからね、お母さんは、自分のやりたいをやっていいんだよ。」
あんなに小さかった子供たちに、
こんなふうに背中を押される日が来るだなんて、思ってもいなかった。
彼女は、これまで知らなかった気持ちを教えてくれた子供たちに感謝をしながら、
改めて、考え直すことにした。
聞いてはいけないと思って、聞かないようにしていた心の声に、
漸く耳を傾けてみれば、答えは直ぐに見つかった。
『その夜、彼女は旦那さんにも相談してみることにしたんだ。
でも、本当は怖かった。
彼女は、もしかしたら反対されるかも知れないと考えていたんだ。
だって、これまでよりも家を空ける時間が長くなってしまうから。』
彼女は旦那さんとの一波乱を覚悟しながらも、相談する決意をした。
それなのに、旦那さんは、すんなりと話を聞き入れて、彼女を応援してくれた。
『実は、彼女がお風呂に入っている間に、
子供たちが旦那さんを説得しておいてくれたんだ。
お母さんは自分の人生を見つけたんだ。
家族としてそれを一緒に応援しよう。
これまではお母さんに甘えてばかりだったけれど、今こそ恩返しをする時だ。
これから家事は分担するよ。
いつまでもお母さんに甘えていないで、お父さんも自立して!ってね。
子供たちにこんなことを言われたら、旦那さんだって、反対出来なくなるよね。』
こうして彼女は、2店舗目の店長への就任の意思を弁当屋のご夫婦へ伝えた。
その時のご夫婦からは、喜びの声と共に、こんな言葉があった。
「私たちは、貴女に枷を付けるようなことはしたくないと思っているの。
もしもいつか、この店が、
貴女にとっての幸せな場所でなくなってしまったとしたら、続ける必要はないからね。
いつでも相談してね。」と。
店長になってからの彼女には、これまでとは違った形での課題が山積みだったけれど、毎日がとても幸せだった。
以前よりも、家族と過ごす時間は確かに減ったけれど、
以前よりも家族の絆が強くなったと感じるのは、
一緒に過ごす時間が減ったからこそ、
共に過ごせる時間を大切にしようとする想いが、
4人共に同じだったからなのかも知れない。
彼女は相変わらずに、家庭でも職場でも、幸せを感じ続けていた。
子供たちは、日々すくすくと育ち、それぞれに自分の歩むべき道を見つけて、
ひとり、またひとりと、巣立ちの時を迎えた。
旦那さんとは、全く職種が違っていたけれど、彼女にとっての彼は、
別な職種であるからこその新たな視点をくれるパートナーともなって行った。
そして、旦那さんにとってもまた、彼女は、良い刺激をくれる相手ともなった。
夫婦でありながら、互いに切磋琢磨し合える関係性。
これは、彼女が店長を引き受けたからこそ出来た関係性だった。
2人は、これまで知らなかった互いを知り、
より強い関係性を築いて行くことが出来た。
そんなふうにして時が経ち、
やがて弁当屋のご夫婦は引退し、三男が跡を継いだ。
それなりに課題に感じられるような出来事がありながらも、
店は相変わらずに繁盛し続けていた。
皆から愛される弁当屋であり続ける努力をして来たからだ。
彼女は、一般的に定年と呼ばれる年齢を迎えても店長であり続けた。
『80歳まで、続けたんだよ。』
それは、二代目店主である三男からの要望でもあったが、
彼女の強い希望でもあった。
彼女は、常に自分にとっての幸せとは何であるのかを考え続けることを辞めなかった。
それは、店長業務を引き受ける時に、ご夫婦から言われた言葉が、
彼女の中へと残り続けていたからでもあった。
自分自身と向き合えば、彼女がいつも辿り着いていたのは、
この弁当屋でお守りを渡す人であり続けたいという想いだった。
家庭でも、弁当屋でも、幸せ。
彼女は、こんなふうに幸せな人生を歩んだ。
『随分と端折って話したけれど、
本当はもっとたくさんの乗り越えなければならない物事もあったし、
時には疲れ果ててしまう日だってあったよ。
でもね、彼女はブレなかった。』
自分が何処に向かって生きるのか、
日々しっかりと見定めて人生を生きる人は、絶対にブレたりはしない。
『有名人でもなんでもないから、皆、この彼女の人生を知らないだけ。
彼女みたいに幸せな人生を送っている人も、実はたくさんいるんだよ。』
もう分かると思うけれど。
こう前置きをして夫が補足として話してくれたのは、弁当屋を始めたご夫婦のことだ。
『この2人は、とんでもなくプラスのエネルギーが高い2人だった。
そうなる努力をして来たからだ。
この世界には、形が存在しているから、目に見えないものは否定されがちだけれど、
人はね、目に見えないものを発しているんだよ。
俺たちが存在する世界も、この世界も、どちらもエネルギーで出来ているとも言える。
エネルギー状態ってね、必ず共鳴し合うんだ。
彼女は、プラスのエネルギーを発生させる努力をし続けて来たから、
弁当屋のご夫婦のエネルギー状態と引き合って、声を掛けてもらえた。
彼女が変わる努力をしなければ、弁当屋へ行くこともなかったよね。
幸せに生きることって、こういうこと。』
なんだか一本の映画を観終わった後のような気持ちだ。
『映画みたい。』
思わず呟けば、夫は笑って言った。
『誰もが映画の主人公なんだよ。
今、俺は、彼女に焦点を充てて話をしたけれど、
弁当屋のご主人とか奥さんに焦点を充てれば、また別なストーリーが見えて来る。』