拝啓、空の彼方のあなたへ

きっと、空に近い場所にいるあなたへ伝えたいこと。手紙、時々、コトバ。    <夫と死別したemiのブログ>

亡き夫と過ごした7日間 25

『ゴリラの人がゴリラとして生まれ変わる前のそのまた前の生に遡る。

これは、ゴリラの前々世の話だ。』

 

その魂ーーー彼は、孤児だった。

 

産まれて間もない頃に、ある教会のドアの前に捨てられていたのだ。

彼が育ったのは、教会が運営する孤児院だった。

 

彼は物心がついた頃から、夢を持っていた。

メイドがいるような豪邸に住むこと。

これが、彼にとっての夢だった。

 

『その時代では、屋敷に複数のメイドを抱えることは、

確かな地位の証明でもあったんだ。』

 

だから彼は、自分もあの地位に辿り着くと決めていた。

 

夢のきっかけは、教会にやって来る富裕層たちだった。

彼は礼拝や式典の後、

チャペルの庭先で繰り広げられる寄付者たちの会話をこっそり盗み聞きしていた。

 

男たちは小声で話す。「鉄道会社の株が上がっているらしい。」

女たちは微笑みながら談笑している。

「この夏は、新しい別荘で過ごすことにしたの。朝の空気が違うのよ、あそこは。」

土地、商売、慈善、名声の話が次々と飛び交う。

 

『この頃の彼は、単純に彼らの話を聞くことが楽しかったんだ。』

 

富裕層と呼ばれる人たちを見た時に、

自分の生活とは程遠い生活をする人たちだと捉える人もいる。

でも、彼は違った。

大人になることは、

誰もがこんなふうに生活できる権利を持つことだと彼は考えていた。

 

『だから彼は、早く大人になりたいとも考えていたんだ。』

 

彼は、11歳になると、

印刷工場へ奉公に出て、14歳で正式に雇われることになった。

 

「奉公って何?」

 

これはあの子の声だ。

 

『奉公って言うのはね、働く代わりにそこに住まわせてもらうことだよ。

彼が育った孤児院では、大体11歳くらいになると、

自立に向けて、奉公に出されていたんだ。

当時はまだ、子供が皆、学校に通える時代じゃなかったからね。』

 

「そっか。そんな時代もあったんだね。

奉公に出される先は、選ぶことが出来たの?」

 

『いや。本人の意思は関係ない。

彼は多少の読み書きが出来たから印刷工場に奉公に出されることになったんだ。

でもね、彼は、印刷工場へ奉公に出されることに、実は喜んでいたんだよ。』

 

当時はまだ義務教育がなかったため、彼にとって学べる場は、

孤児院で教わる簡単な勉強だけだった。

それでも彼は、これからの自分には読み書きの力がどうしても必要だと感じていた。

だからこそ、毎日活字に触れられる印刷工場での仕事を、

密かに好都合だと考えていた。

 

奉公へと出されてからの彼は工場での仕事をしながら、夜はこっそりと勉強をした。

 

『そんなふうにして、14歳になったんだ。孤児院からの巣立ちだ。

彼はこれで一歩、大人へと近付いたと感じていた。』

 

生まれて初めての給料日、彼はとても感動した。

彼は、生まれて初めてお金に触れることが出来たのだ。

 

「奉公では、お金は貰えなかったの?」

 

これは、あの子と私からの質問だ。

 

『そうだね。貰えなかった。

奉公へ出れば、住むところや食事の世話以外に、

賃金が支払われる場合もあるけれど、

その場合は、彼の保護者という立場だった孤児院に入る流れだ。

彼が奉公に出ている間に、印刷工場からお金が支払われていたかどうか、

彼は知らない。』

 

初めて手にしたお金に喜びを感じた彼は、更に一生懸命に働いた。

やがて、自分の部屋を借りることも出来た。

 

ひとりの人間としての自立に喜びを感じていた彼だったけれど、

生活にも慣れて来た頃に、彼はおかしいと感じた。

 

何故こんなに頑張って働いているのに、お金が一向に貯まらないのか。

彼は、こんな疑問を持ったのだ。

 

『彼はね、頑張らなくてもお金は稼げるものだと考えていたんだ。

でも、彼にとっての現実は違っていた。』

 

そうして考えた。

教会に来ていた富裕層と自分とでは何が違うのか、と。

 

そこからの彼は、徹底的に生活を切り詰めた。

 

朝も昼も固くなったパンのかけらをひとつずつ。

夕飯は、薄いポテトのスープを1杯か、水で薄めた麦粥だけ。

 

腹は常に鳴っていたが、彼にはこれ以外の方法を思いつけずにいた。

 

そんなふうにして、1年程が経ったある日。

いつものように印刷機の側で、刷り上がった新聞広告を、

1枚1枚丁寧にチェックしていた彼の目に飛び込んで来たのは、

開業からまだ間もない製薬会社の記事だった。

 

彼はその瞬間に、この会社だと思った。

理由は、彼にもよく分からない。

でも、彼の中には心が躍るような何かが確かにあったのだ。

 

この1年間、彼が生活を切り詰めて来た理由。

それは、投資資金を貯めるためだった。

 

彼は、これまでに貯めた金を今すぐにでもこの会社に投資したいと考えた。

 

でも、彼には足りないものがあった。

年齢だ。

この頃、彼は16歳になっていた。

けれど社会的に大人と呼ばれる年齢ではまだない。

故に、彼には投資の資格がなかったのだ。

 

だから彼は、密かに開業からまだ間もない会社を探していた。

この製薬会社を見つけた時に、彼は、漸く出会えたような気がしていた。

 

そうして彼は、早速、自分の中で温めて来た方法で、

投資家への第一歩を踏み出した。

 

先ず彼がしたのは、製薬会社へ手紙を出すことだった。

勿論、自分が16歳の少年だとは書かなかった。

ただ、簡潔に、そして熱意を込めて、

自分の貯めたお金を出資したいことだけを伝えた。

 

数日後、返信が届いた。

簡素な封筒に入った便箋には、こう書かれていた。

 

ーーー

拝復

このたびは、弊社にご関心を寄せていただき、誠にありがとうございます。

 

あなたのお言葉には、数字を超えた力を感じました。

どんなに小さな支援であっても、その背景にある想いと信頼こそが、

私たちの原動力となります。

 

心より感謝申し上げます。ご出資、ありがたくお受けいたします。

 

まずは略儀ながら書中にて御礼申し上げます。

 

何卒、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 


敬具

ーーー

 

これが、彼の人生を変える投資の始まりだった。

 

彼は、その夜のうちに、金の準備に取り掛かった。

貯めた金は、小さな金属製の箱にまとめて保管していた。

銀貨と幾枚かの紙幣を取り出すと、

小さな布袋に硬貨を包んでから紙幣と一緒に厚手の紙でさらに包んだ。

そうして手紙と一緒に封筒に入れて、封をした。

 

「危なくないの?お金を郵便で送るなんて。」

 

こんな私たちの声に夫は言った。

 

『当時は珍しくはなかったんだよ。

もちろんリスクはあったけれど、彼にはそれ以外の方法が分からなかったんだ。』

 

翌朝、彼は出勤前に郵便局へ立ち寄った。

これで、すべてが動き出す。

こんな期待から一変し、

そこからの数日は、彼が生きて来た中で最も長く重い数日間だった。

 

万が一、郵便物が製薬会社へ届かなかったら?

お金だけが奪われたら?

そんな不安がずっと頭の中を巡っていた。

この間の彼は、夜も眠れなかった。

 

そして、手紙を送ってから丁度、1週間後。

彼の元へ1通の手紙が届けられた。

製薬会社からの返事だった。

震える手で封を切ると、中には2枚の書類が丁寧に折りたたまれていた。

 

ひとつは「出資証明書」。

彼の名前と、出資額、受領日、

そして会社代表の署名と社印がしっかりと押されていた。

もうひとつは、簡易的な「契約書」だった。

その文面には、こう記されていた。

 

ーーー

本書により、貴殿のご意思によって成された出資を正式に受領いたしましたことを、

ここに証します。

今後、本社の業績および成長に応じて、相応の配当および業務報告を行う所存です。

 

出資者には株主会議への出席権は付与されませんが、

個別の通信をもって、業務状況の報告を随時行うことをお約束いたします。

 

ご信頼とご支援に、心より感謝申し上げます。

ーーー

 

『株主ではないから、会社の会議には出られないし、

経営の決定に口を出すことはできないけれど、

出資者として、利益が出たときには配当金を送るよ。という内容だ。』

 

彼は、書類を読み終えた後、長いこと動けずにいた。

これまでの人生の中で、自分の名前が、

誰かの公式な文書に記されることなど一度もなかったからだ。

彼はその夜、ずっとその紙を枕元に置いて眠った。

 

『彼はね、ずっと考えていたんだよ。

この、手紙を出すという方法で成功できるとしたのなら、

開業から間もない会社でなければならないと。』

 

大企業にとって、彼が貯めた僅かな金はノイズにすぎない。

だが、新しい会社なら、この金を「最初の石」と見なしてくれるかもしれない。

そんなふうに思い描いた未来が、現実となった。

 

「ところで、16歳の彼が出資者になっても、法律的には問題ないの?」

 

こんなあの子の声に私も思わず頷いた。

 

『これもね、時代なんだよ。

製薬会社の方も、彼の年齢は確認していない。

少しでもお金を集めたかったからなのかも知れないね。

勿論、今は成立しない話だよ。当時のグレーゾーンってところかな。』

 

 

あの頃は良い時代だったーーーBY.ゴリラの人

 

 

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