自分にとっての大きな前進をした彼は、
此処からどんなふうにして行くのかを考えた。
同じやり方で、様々な企業の出資者になるのは、
少し無理があるのではないかと考えた彼は、副業を始めことにした。靴磨きだ。
印刷工場へ仕事に行く前の時間と、日曜日。
彼は、出来るだけ多くの富裕層が集まる場所で、靴磨きを始めようと考えた。
『でもね、靴磨きって言っても、それなりにハードルがあったりもする。
場所を自由に選べるわけではない。
実は縄張りなんかがあったりもするんだ。』
靴磨きの初日。
彼は漸く、駅前の人気の少し離れた角に腰を下ろした。
暫くして、2人の少年がやってきた。
片方はボロボロの帽子を斜めにかぶり、もう片方は片手にベルトを巻いている。
「おい!そこ、トミーがいつも使ってる場所だぞ?」
彼は手を止め、穏やかに微笑んだ。
「トミーには借りてるって伝えてくれる?朝の1時間だけ。終わったら必ず戻す。」
少年たちは顔を見合わせた。
「・・・ふーん。で、あんた誰?」
【この街で、朝一番に金の情報を拾う男】
そう名乗った彼は、彼らにある話をしてみせた。
「K製薬って聞いたことある?まだ出来て間もないんだけどさ、
ちょっと面白いことになってる。」
彼は出資していることは明かさず、でも、
富裕層が興味を持ち始めているという雰囲気を匂わせた。
少年たちは面白がった。
何故なら、このような情報を客に話せば、
情報の礼に、銀貨を1枚多く貰えることがあるからだ。
翌日から、例の会社が伸びるらしい、という噂が、
彼らの口から自然と広がっていった。
当時はまだインターネットもテレビも当然なく、
情報源は新聞、手紙、噂話などだった。
それ故、投資の意思決定において、噂は非常に大きな影響を持っていた。
ここからの彼がやることは、単なる靴磨きではない。
情報を流すこと、それから、情報を得ることだった。
彼は、相手の靴を磨きながら、
その人物がどういう階級に属するか、何に関心を持っているかを、
会話の端々と身なりから見抜こうとした。
ある男は新聞を抱えながら無言で座った。
ある女は、香水の匂いを残しながら、磨かれる靴のつま先をじっと見つめていた。
口を開く者もいれば、何も言わずに立ち去る者もいた。
だが、ほんの僅か雑談の中に、彼は確かな鍵を見つける。
最近、隣街に新しい研究所ができたらしいな
例の議員が関心を示しているらしいじゃないか
夫が、少しだけ株を買ってみたんですって
こうした何気ない一言一言が、確かに風向きを教えてくれるのだった。
それを聞くたび、彼は心の中で、静かに頷いた。
噂は、動いている。
そして彼は、自分もその一部として噂を流す側に加わっていた。
「お客さん、その靴は上等ですね。
・・・あ、失礼、ちょっと新聞の端が汚れてましたよ。
あ、これ?製薬会社の広告です。最近よく載ってるんですよ、ここ。」
さりげなく新聞の隅を指しながら、彼は話題を滑り込ませる。
「伸びてるらしいですね、あそこ。
なんでも、陛下の侍医も気にしているとかーー噂ですけど。」
真偽などどうでもよかった。
重要なのは、気にしている人がいるらしい、という印象を与えること。
それが富裕層の好奇心をくすぐる。そして彼らの興味が動けば、資金もまた動く。
少年たちが流す噂は、やがてもっと太い耳へと届いていく。
銀行の前、馬車のステップ、社交クラブのロビーで。
例の会社、伸びるらしい。
やがてその囁きは、見えない渦のように都市を巡っていった。
彼は、その中心には立たなかった。
誰からも注目されることなく、ただ、靴を磨き、笑みを浮かべ、情報を渡す。
やがて、彼の小さな財布には、確かに銀貨が、ひとつ、またひとつと増えていった。
それは、単なる報酬ではない。未来を買うための資本だった。
『彼が靴磨きの副業をした理由はね、2つあったんだ。
ひとつは、自らが出資した製薬会社の名を広めて、富裕層の関心を引くため。』
設立されたばかりの小さな製薬会社に、直接大きな広告を出す力などない。
だが、街の噂に乗れば、話は違ってくる。
金持ちの耳に「伸びているらしい」という言葉が届き、投資の候補に上がれば、
自然と資金が集まり、会社の成長は加速する。
そのきっかけを作るために、彼は自分の手で噂を流す側に回ったのだ。
『そしてもうひとつは、投資に関わる本物の情報を拾い集めるため。』
新聞には載らない、けれども価値のある情報は、街の会話の隙間にこそ落ちている。
彼は靴を磨きながら耳を澄ませた。
誰がどこに投資した
どんな会社が買収された
どの一等地に誰が土地を買った
そうした生の情報を得ることで、彼の中へ新たな知識が蓄えられた。
そして、その情報を別の客にそれとなく話すことで、
礼として多めの銀貨を得ることもあった。
彼にとっての靴磨きは、
会社を育て、自分自身も育てていくための、もうひとつの戦場だった。