靴磨きと印刷工場の両立は確かに大変だった。
でも、彼はこんな生活を2年続けた。
そんなある日、彼の元に1通の封筒が届いた。
彼が封筒を開けた瞬間、ほんのわずかな銀貨が転がり出た。
額は大きくなかった。だが、それは確かに戻ってきた金だった。
いや、実を結び始めた金、と言った方が正確かもしれない。
初めての配当だった。
これは小さな始まりだったが、彼にとっては大きな一歩だった。
次の日曜日の昼下がり。
通りの賑わいの中、彼は慣れた手つきで靴を磨いていた。
軽口を交わし、時に静かに、客の足元を綺麗にして行く。
そこにひとりの男が現れた。
灰色の上着、金の懐中時計。靴は磨き甲斐のある上質な革。
「ここに来るのは、初めてじゃない。」
男はそう言って腰を下ろした。
彼は顔を上げるが、見覚えはない。いつも通りの調子で言う。
「私は足元にしか興味がないもんで、顔はあまり覚えません。」
男は微笑み、懐から新聞の切り抜きを1枚取り出した。
それは、K製薬の業績上昇を伝える記事だった。
「これを読んで、君に声をかけようと思った。」
「・・・なんの話です?」
「2年前、君があの噂を最初に広めていた時のことだよ。」
彼の手が止まる。
「君はあの日、突然ここに現れて、あの噂を流した。
ーーーK製薬って聞いたことある?ーーー私はあれを聞いていた。」
「・・・」
「あれからの私は君を見ていた。
君が何をしているか、どんな話をしているか、誰と関わっているか。」
「何故そんなことを・・・?」
男は、ゆっくりと言った。
「世の中には、自分の頭で考え、未来に種を撒く者がいる。
君は、ただの靴磨きではなかった。君の言葉が人を動かし、金を動かしていた。」
彼は、何も返せなかった。
ただ黙って男の靴を拭き上げた。
男は銀貨を2枚置いたあと、名刺サイズの紙片を差し出した。
「名乗るほどの者ではないが、
金の先を見る目が君にあるかどうか、試してみたくなった。」
紙には、こう書かれていた。
ーーー
《エドマンド・A・キャリントン》
資本運用・投資仲介
ーーー
「それでも君が、靴磨きを続けたいというのなら、それも良い。
だがもし君が、金を使ってもっと大きな何かを動かしたいと思うのなら、
訪ねて来なさい。」
男はそのまま立ち去り、馬車に乗り込んだ。
残された彼は、ただ風に揺れる紙片を見つめていた。
名前も、肩書きも、どこか胡散臭いと感じてもおかしくはなかった。
だが彼の中には、違和感はなかった。
彼には分かった。
この男は、自分を試したがっている。
男の瞳の奥に僅かに見えた期待の色を、彼は見逃さなかった。
翌日、彼は初めて、印刷工場の仕事を休んだ。
彼に会いに行くためだ。
扉を叩くと、中から出てきたのは若い秘書風の女性だった。
「ご予約は?」
「ありません。でも、興味があればここに来るように言われました。」
しばらくの沈黙の後、奥の部屋から低い声が届いた。
「通してやってくれ。」
扉が開かれ、彼は初めて、投資の世界の入り口に足を踏み入れた。
通された応接室は、派手さはないが、厳格で無駄のない空間だった。
部屋の奥で新聞を広げていた男── エドマンド・A・キャリントンが顔を上げた。
「思ったより早かったな。」
エドマンドは僅かに笑みを浮かべた。
「では、早速始めようか。ここは、靴磨きよりは、少しだけ退屈な世界だ。」
エドマンドは机の上に三通の書状を並べた。
「これは、実際に私の元に届いた出資の相談だ。
それぞれ別の事業――ひとつは、新型ガス灯の製造会社、
ひとつは、薬局と調剤を兼ねた店舗の展開、
そしてもうひとつは、街道沿いに蒸気馬車を走らせる計画だ。
君なら、どれに出資する?」
彼は黙って三通の文面を読み比べた。
紙の質、封に押された印章の重み、文章の筆跡。
そして事業の見通しと市場の気配、全てを総合して、彼は答えた。
「これ(薬局の事業)です。
市場がすでに存在している。あとは、どう広げるかの勝負でしょう。
蒸気馬車やガス灯は、国の許可や利権が絡むため、進行が遅くなると思います。」
「ふむ、では、次だ。」
エドマンドは、新聞の切り抜きを1枚渡した。
K製薬が、ある症状に効果のある新薬の試験に成功した、という小さな記事だった。
「これを読んだ。君が、2年前にこの会社の噂を流し始めた理由は何だ?」
「ただの直感です。」
「ただの直感で君は噂を流した。
・・・富裕層が注目すれば、会社に金が集まる。
君の投資も、価値を持つようになる。」
彼は目を逸らさなかった。
言い逃れの余地もなかった。
「君があの会社に出資していたことは、最初から疑っていたよ。
君が未成年であることも含めてね。」
エドマンドは、そう言って背もたれに深くもたれた。
「私は、君がどこまで考えてやったかを、確認したかった。
そして今、確信した。君は、偶然ではなく、意図して未来を引き寄せた。」
やがてエドマンドは、ゆっくりと言葉を続けた。
「君は、まだ法的に投資を自由に行える年齢ではない。だが、あと数年だ。
その間、ここで働かないか?」
「・・・働く?」
「私は、若い投資家を見つけて育てる趣味はない。
だが、先を見る目を持つ者には、仕事を教える価値がある。」
「給金は?」
「靴磨きよりは、少しだけいい。
だが、金の動かし方を覚えるのは、金より価値があると思わないか?」
彼は、静かに答えた。
「興味はあります。」
「では、契約書を交わそう。とはいえ、君の年齢では形式にすぎないが。」
「・・・この前と同じですね。」
「どういう意味だ?」
「製薬会社に出資したときも、俺の年齢じゃ契約は正式じゃなかった。
でも、受け取ってくれた。」
エドマンドは一瞬だけ目を細め、そして頷いた。