拝啓、空の彼方のあなたへ

きっと、空に近い場所にいるあなたへ伝えたいこと。手紙、時々、コトバ。    <夫と死別したemiのブログ>

亡き夫と過ごした7日間 27

靴磨きと印刷工場の両立は確かに大変だった。

でも、彼はこんな生活を2年続けた。

 

そんなある日、彼の元に1通の封筒が届いた。

彼が封筒を開けた瞬間、ほんのわずかな銀貨が転がり出た。

 

額は大きくなかった。だが、それは確かに戻ってきた金だった。

いや、実を結び始めた金、と言った方が正確かもしれない。

 

初めての配当だった。

これは小さな始まりだったが、彼にとっては大きな一歩だった。

 

次の日曜日の昼下がり。

通りの賑わいの中、彼は慣れた手つきで靴を磨いていた。

軽口を交わし、時に静かに、客の足元を綺麗にして行く。

 

そこにひとりの男が現れた。

灰色の上着、金の懐中時計。靴は磨き甲斐のある上質な革。

 

「ここに来るのは、初めてじゃない。」

 

男はそう言って腰を下ろした。

彼は顔を上げるが、見覚えはない。いつも通りの調子で言う。

 

「私は足元にしか興味がないもんで、顔はあまり覚えません。」

 

男は微笑み、懐から新聞の切り抜きを1枚取り出した。

それは、K製薬の業績上昇を伝える記事だった。

 

「これを読んで、君に声をかけようと思った。」

 

「・・・なんの話です?」

 

「2年前、君があの噂を最初に広めていた時のことだよ。」

 

彼の手が止まる。

 

「君はあの日、突然ここに現れて、あの噂を流した。

ーーーK製薬って聞いたことある?ーーー私はあれを聞いていた。」

 

「・・・」

 

「あれからの私は君を見ていた。

君が何をしているか、どんな話をしているか、誰と関わっているか。」

 

「何故そんなことを・・・?」

 

男は、ゆっくりと言った。

 

「世の中には、自分の頭で考え、未来に種を撒く者がいる。

君は、ただの靴磨きではなかった。君の言葉が人を動かし、金を動かしていた。」

 

彼は、何も返せなかった。

ただ黙って男の靴を拭き上げた。

 

男は銀貨を2枚置いたあと、名刺サイズの紙片を差し出した。

 

「名乗るほどの者ではないが、

金の先を見る目が君にあるかどうか、試してみたくなった。」

 

紙には、こう書かれていた。

 

ーーー

 

《エドマンド・A・キャリントン》

資本運用・投資仲介

 

ーーー

 

「それでも君が、靴磨きを続けたいというのなら、それも良い。

だがもし君が、金を使ってもっと大きな何かを動かしたいと思うのなら、

訪ねて来なさい。」

 

男はそのまま立ち去り、馬車に乗り込んだ。

 

残された彼は、ただ風に揺れる紙片を見つめていた。

名前も、肩書きも、どこか胡散臭いと感じてもおかしくはなかった。

だが彼の中には、違和感はなかった。

 

彼には分かった。

この男は、自分を試したがっている。

男の瞳の奥に僅かに見えた期待の色を、彼は見逃さなかった。

 

翌日、彼は初めて、印刷工場の仕事を休んだ。

彼に会いに行くためだ。

 

扉を叩くと、中から出てきたのは若い秘書風の女性だった。

 

「ご予約は?」

 

「ありません。でも、興味があればここに来るように言われました。」

 

しばらくの沈黙の後、奥の部屋から低い声が届いた。

 

「通してやってくれ。」

 

扉が開かれ、彼は初めて、投資の世界の入り口に足を踏み入れた。

 

通された応接室は、派手さはないが、厳格で無駄のない空間だった。

部屋の奥で新聞を広げていた男── エドマンド・A・キャリントンが顔を上げた。

 

「思ったより早かったな。」

 

エドマンドは僅かに笑みを浮かべた。

 

「では、早速始めようか。ここは、靴磨きよりは、少しだけ退屈な世界だ。」

 

エドマンドは机の上に三通の書状を並べた。

 

「これは、実際に私の元に届いた出資の相談だ。

それぞれ別の事業――ひとつは、新型ガス灯の製造会社、

ひとつは、薬局と調剤を兼ねた店舗の展開、

そしてもうひとつは、街道沿いに蒸気馬車を走らせる計画だ。

君なら、どれに出資する?」

 

彼は黙って三通の文面を読み比べた。

 

紙の質、封に押された印章の重み、文章の筆跡。

そして事業の見通しと市場の気配、全てを総合して、彼は答えた。

 

「これ(薬局の事業)です。

市場がすでに存在している。あとは、どう広げるかの勝負でしょう。

蒸気馬車やガス灯は、国の許可や利権が絡むため、進行が遅くなると思います。」

 

「ふむ、では、次だ。」

 

エドマンドは、新聞の切り抜きを1枚渡した。

 

K製薬が、ある症状に効果のある新薬の試験に成功した、という小さな記事だった。

 

「これを読んだ。君が、2年前にこの会社の噂を流し始めた理由は何だ?」

 

「ただの直感です。」

 

「ただの直感で君は噂を流した。

・・・富裕層が注目すれば、会社に金が集まる。

君の投資も、価値を持つようになる。」

 

彼は目を逸らさなかった。

言い逃れの余地もなかった。

 

「君があの会社に出資していたことは、最初から疑っていたよ。

君が未成年であることも含めてね。」

 

エドマンドは、そう言って背もたれに深くもたれた。

 

「私は、君がどこまで考えてやったかを、確認したかった。

そして今、確信した。君は、偶然ではなく、意図して未来を引き寄せた。」

 

やがてエドマンドは、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「君は、まだ法的に投資を自由に行える年齢ではない。だが、あと数年だ。

その間、ここで働かないか?」

 

「・・・働く?」

 

「私は、若い投資家を見つけて育てる趣味はない。

だが、先を見る目を持つ者には、仕事を教える価値がある。」

 

「給金は?」

 

「靴磨きよりは、少しだけいい。

だが、金の動かし方を覚えるのは、金より価値があると思わないか?」

 

彼は、静かに答えた。

 

「興味はあります。」

 

「では、契約書を交わそう。とはいえ、君の年齢では形式にすぎないが。」

 

「・・・この前と同じですね。」

 

「どういう意味だ?」

 

「製薬会社に出資したときも、俺の年齢じゃ契約は正式じゃなかった。

でも、受け取ってくれた。」

 

エドマンドは一瞬だけ目を細め、そして頷いた。

 

 

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