拝啓、空の彼方のあなたへ

きっと、空に近い場所にいるあなたへ伝えたいこと。手紙、時々、コトバ。    <夫と死別したemiのブログ>

亡き夫と過ごした7日間 32

結婚しても、彼の日々は殆ど変わらなかった。

 

早朝に目を覚まし、机に向かい、書類と数字に没頭する。

屋敷の中にはもうひとりの住人が加わっていたが、

その存在は、ごく静かで、彼の生活の流れを乱すことはなかった。

 

朝食には彼女の手で温かな紅茶が添えられるようになり、

書斎には、乾いた目を労わる薬草茶がそっと置かれていることが増えた。

 

お茶を受け取ると、彼は微かに頷いた。

「ありがとう。」

それは決して形式だけの言葉ではなく、

本当にそう思っているのだとわかる声だった。

けれど、彼女が微笑んでも、彼の目はすぐに手元の書類へ戻る。

 

席を立つときには、カップを丁寧に戻し、椅子を静かに押し込む。

振る舞いは常に正しく、彼女を傷つけることもなかった。

不機嫌になることも、声を荒らげることもない。

けれど、どれほど穏やかに過ごしていても、

彼が本当の気持ちを見せることはなかった。

まるでそこにひとつの扉があるかのように。

 

礼儀はある。

気遣いもある。

だが、親しさは、なかった。

それが彼という人なのだと、彼女は少しずつ理解していった。

 

それは、ある夜の慈善ディナーでの出来事だった。

 

楽団の演奏が終わり、ワイン片手に談笑の輪が広がる。

軽く笑い合う声が、会場の高い天井に柔らかく反響していた。

彼が一歩下がった位置でグラスを傾けていると、

かつて取引を共にした投資家の男が近づいてきた。

 

「いやぁ、君の奥さん、素晴らしい人だね。

あれほど気品があって、しかも控えめとは。

運がいいな。結婚生活はどうだい? 幸せだろ?」

 

男は悪気なく、朗らかに笑う。

彼は一瞬、返す言葉を探すように視線を泳がせ、グラスの縁に口をつけた。

 

「・・・ありがたい存在だよ。」

 

短くそう返したが、その声音には、感情の重みがなかった。

男は気付かず、満足げに頷くと、別の知人の元へ移っていった。

 

残された彼は、ゆっくりと視線を向ける。

会場の向こう、ほかの貴婦人たちに囲まれて微笑んでいる妻の姿があった。

品よく、誠実に、まるでこの場所に昔から馴染んでいたかのように。

 

ーーー幸せ、か。

 

グラスの中の赤い液体が揺れて、

返す言葉にならなかった思いが、音もなく沈んでいった。

 

この日を境に、【幸せだろう?】という言葉が、彼の頭から離れなかった。

 

これまで、自分にとっての幸せについて考えたことなど、一度もなかった。

だが、その何気ない一言が、彼の中に小さな疑問を残した。

ーーー幸せとは、一体、何なのか。

 

こうして彼は時々、幸せについてを考えるようになって行ったが、

仕事に追われる日々の中で、時は流れ、1年が経っていた。

 

その日は珍しく、仕事の合間に公園で足を止めた。

木陰のベンチに腰を下ろし、ただ風が通り抜けるのを感じていた。

 

隣のベンチにいた旅人風の男と、ふと目が合った。

 

「・・・あんた、幸せそうな顔してないな。」

 

唐突な言葉に、彼は思わずそちらを見た。

 

男は何かを決めつけるでもなく、

ただ葉の揺れる方を見ながら、気のない調子で続けた。

 

「金も、地位も、あるように見えるけど。肝心なところが抜けてる顔だ。」

 

彼は返す言葉を見つけられず、視線を戻した。

男はもう何も言わなかった。

 

ただそれだけのやりとりだったのに、

その短い言葉が、なぜか胸に残った。

 

また、幸せという言葉が、心の奥に落ちていった。

 

「あなたにとっての幸せとは、何ですか?」

 

彼は静かに問いかけた。

旅人風の男は少し考え込み、やがてゆっくりと答えた。

 

「幸せか・・・俺は旅人だ。

どこへでも行き、縛られることなく生きている。

自由でいること、それが俺の幸せだ。」

 

彼はその言葉に、今までとは違う響きを感じた。

 

「自由・・・か。」

 

男は肩をすくめて笑った。

 

「そうだ。自由を掴むのは簡単じゃない。

だが、それを追い求めることが、生きる意味だと思っている。

世界は、とてつもなく広い。

見たこともない景色があちこちにあって、人も文化も千差万別だ。

そんな場所を巡ることで、自分というものが少しずつ見えてくるんだ。」

 

彼は黙って男の言葉を噛み締めた。

それは彼の心に、静かな波紋を広げていった。

 

ーーー

 

あの日、公園で交わした短い会話が、ずっと胸に残っていた。

「俺は旅人だ」「自由こそが俺の幸せだ」

その言葉が、消えかけた何かをそっと呼び起こしたのかも知れない。

 

彼は、保養のための小旅行ということにして、

ひと月だけ屋敷を離れることにした。

 

屋敷のことは妻と執事に任せていく。

彼の不在を特に気にする者はいなかった。

事業は安定し、日々の投資も大きく動く時期ではなかったからだ。

 

荷は少しだけ。

手帳と、地図と、小さな旅鞄ひとつ。

これは、彼にとって、ほんの小さな一歩のつもりだった。

 

 

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