結婚しても、彼の日々は殆ど変わらなかった。
早朝に目を覚まし、机に向かい、書類と数字に没頭する。
屋敷の中にはもうひとりの住人が加わっていたが、
その存在は、ごく静かで、彼の生活の流れを乱すことはなかった。
朝食には彼女の手で温かな紅茶が添えられるようになり、
書斎には、乾いた目を労わる薬草茶がそっと置かれていることが増えた。
お茶を受け取ると、彼は微かに頷いた。
「ありがとう。」
それは決して形式だけの言葉ではなく、
本当にそう思っているのだとわかる声だった。
けれど、彼女が微笑んでも、彼の目はすぐに手元の書類へ戻る。
席を立つときには、カップを丁寧に戻し、椅子を静かに押し込む。
振る舞いは常に正しく、彼女を傷つけることもなかった。
不機嫌になることも、声を荒らげることもない。
けれど、どれほど穏やかに過ごしていても、
彼が本当の気持ちを見せることはなかった。
まるでそこにひとつの扉があるかのように。
礼儀はある。
気遣いもある。
だが、親しさは、なかった。
それが彼という人なのだと、彼女は少しずつ理解していった。
それは、ある夜の慈善ディナーでの出来事だった。
楽団の演奏が終わり、ワイン片手に談笑の輪が広がる。
軽く笑い合う声が、会場の高い天井に柔らかく反響していた。
彼が一歩下がった位置でグラスを傾けていると、
かつて取引を共にした投資家の男が近づいてきた。
「いやぁ、君の奥さん、素晴らしい人だね。
あれほど気品があって、しかも控えめとは。
運がいいな。結婚生活はどうだい? 幸せだろ?」
男は悪気なく、朗らかに笑う。
彼は一瞬、返す言葉を探すように視線を泳がせ、グラスの縁に口をつけた。
「・・・ありがたい存在だよ。」
短くそう返したが、その声音には、感情の重みがなかった。
男は気付かず、満足げに頷くと、別の知人の元へ移っていった。
残された彼は、ゆっくりと視線を向ける。
会場の向こう、ほかの貴婦人たちに囲まれて微笑んでいる妻の姿があった。
品よく、誠実に、まるでこの場所に昔から馴染んでいたかのように。
ーーー幸せ、か。
グラスの中の赤い液体が揺れて、
返す言葉にならなかった思いが、音もなく沈んでいった。
この日を境に、【幸せだろう?】という言葉が、彼の頭から離れなかった。
これまで、自分にとっての幸せについて考えたことなど、一度もなかった。
だが、その何気ない一言が、彼の中に小さな疑問を残した。
ーーー幸せとは、一体、何なのか。
こうして彼は時々、幸せについてを考えるようになって行ったが、
仕事に追われる日々の中で、時は流れ、1年が経っていた。
その日は珍しく、仕事の合間に公園で足を止めた。
木陰のベンチに腰を下ろし、ただ風が通り抜けるのを感じていた。
隣のベンチにいた旅人風の男と、ふと目が合った。
「・・・あんた、幸せそうな顔してないな。」
唐突な言葉に、彼は思わずそちらを見た。
男は何かを決めつけるでもなく、
ただ葉の揺れる方を見ながら、気のない調子で続けた。
「金も、地位も、あるように見えるけど。肝心なところが抜けてる顔だ。」
彼は返す言葉を見つけられず、視線を戻した。
男はもう何も言わなかった。
ただそれだけのやりとりだったのに、
その短い言葉が、なぜか胸に残った。
また、幸せという言葉が、心の奥に落ちていった。
「あなたにとっての幸せとは、何ですか?」
彼は静かに問いかけた。
旅人風の男は少し考え込み、やがてゆっくりと答えた。
「幸せか・・・俺は旅人だ。
どこへでも行き、縛られることなく生きている。
自由でいること、それが俺の幸せだ。」
彼はその言葉に、今までとは違う響きを感じた。
「自由・・・か。」
男は肩をすくめて笑った。
「そうだ。自由を掴むのは簡単じゃない。
だが、それを追い求めることが、生きる意味だと思っている。
世界は、とてつもなく広い。
見たこともない景色があちこちにあって、人も文化も千差万別だ。
そんな場所を巡ることで、自分というものが少しずつ見えてくるんだ。」
彼は黙って男の言葉を噛み締めた。
それは彼の心に、静かな波紋を広げていった。
ーーー
あの日、公園で交わした短い会話が、ずっと胸に残っていた。
「俺は旅人だ」「自由こそが俺の幸せだ」
その言葉が、消えかけた何かをそっと呼び起こしたのかも知れない。
彼は、保養のための小旅行ということにして、
ひと月だけ屋敷を離れることにした。
屋敷のことは妻と執事に任せていく。
彼の不在を特に気にする者はいなかった。
事業は安定し、日々の投資も大きく動く時期ではなかったからだ。
荷は少しだけ。
手帳と、地図と、小さな旅鞄ひとつ。
これは、彼にとって、ほんの小さな一歩のつもりだった。