拝啓、空の彼方のあなたへ

きっと、空に近い場所にいるあなたへ伝えたいこと。手紙、時々、コトバ。    <夫と死別したemiのブログ>

亡き夫と過ごした7日間 33

旅に出てからの彼は、毎日をただ歩いた。

 

名も知らぬ町を訪れ、店先で地元の人と交わす何気ない会話に耳を傾けた。

市場のざわめき、子どもたちの笑い声、どこかから流れてくる笛の音。

 

そんな中で、彼は少しずつ表情を変えて行った。

ある日、旅の途中で知り合った人々と囲んだ粗末な食卓で、

ふとした冗談に笑いが起きた。

 

彼もその輪の中で笑った。

堪えることも、控えることもなく、腹の底から、大きな声で。

 

ーーー人生で、こんなふうに笑ったことがあっただろうか。

その瞬間、自分の中の何かが、音を立ててほどけていくのを感じた。

 

思い描いた屋敷も、財産も、立場もすべて、

あの頃の自分にとっては「夢」だった。

けれど今、そのすべてを越えて、

初めて「幸せ」というものに触れたような気がした。

 

それは特別な光景ではなく、ありふれた日々の中にそっと咲いていた。

 

彼はその夜、静かに空を見上げた。

旅のはじまりに手にした小さな地図には、もう何の意味もなかった。

これからの道は、自分の心が指し示していくのだと、自然に思えた。

 

あっという間に、ひと月が過ぎていた。

 

時間の流れとは、こんなにも早いものなのだろうか。

彼は、人生の中で初めてこんなふうに感じた。

 

旅の終わりの日、彼は気付いた。

時計の針に追われる日々ではなく、

心がほどけていくような時間の在り方が、この世にはあるのだと。

 

旅から戻ってから暫くの間、彼は以前と同じように過ごした。

 

屋敷の空気も、机の上の帳簿も、何ひとつ変わっていない。

けれど、彼の中には、確かな変化があった。

 

ある日、彼は静かに妻に声をかけた。

 

「投資のことを、少しずつ教えようと思う。」

 

突然の言葉だったが、妻は何も聞き返さず、ただ静かに頷いた。

そうして翌日から、彼の側で、少しずつ投資について学び始めた。

 

最初は基本的な仕組みを伝えるだけだったが、

彼女は驚くほど早く理解し、次第に自身の考えを口にするようになっていた。

 

ある日、彼はふと気づく。

もしかすると彼女のほうが、

自分よりも先を読む力に長けているのではないか、と。

 

感覚が鋭く、数字に対する勘もある。

それだけでなく、言葉にしづらい市場の空気や流れを、

直感的に掴んでいるようだった。

 

投資についてを教え始めてから、間も無く1年。

 

妻ひとりでも、十分に生活していけることを確認すると、

彼は、離婚を切り出すタイミングを探すようになった。

 

だが、言葉にしようとする度に、喉の奥で何かが引っかかった。

感情ではなく、責任でもなく。

ただ、うまく言えなかった。

 

そんなある日、いつものように机を挟んで資料を見ていた時、

妻が不意に口を開いた。

 

「離婚を・・・考えているのよね?」

 

彼は、一瞬だけ動きを止めたが、顔を上げなかった。

妻の声は静かで、どこか整然としていた。

 

「1か月の旅に出掛けて行ったあなたは、

もう二度と戻らないのではないかと思っていたの。

だから、戻って来てくれた時には、本当に嬉しかった。

でも、旅から帰ったあなたの顔を見た時に分かったの。

旅の中で、あなたはきっと、これからの新しい道を見つけたんだって。

その道を進むあなたの隣には、私はいないのよね?」

 

彼はわずかに頷いた。

それだけで、ふたりの間にあった曖昧な時間が、静かに終わりを迎えた。

 

しばらく沈黙が続いたあと、妻がそっと口を開いた。

 

「これから、あなたはどうするの?」

 

彼は少しだけ間を置き、静かに答えた。

 

「世界中を旅して生きていこうと思う。

知らない土地を見て、知らない人たちと話して。

そんなふうにして、生きてみたい。」

 

妻は微かに微笑んだあと、ふと目を伏せるようにして言った。

 

「あなたは、いつも孤独だった。

・・・旅に出たら、あなたは孤独じゃなくなるの?」

 

その問いに、彼はゆっくりと顔を上げた。

少しだけ迷いながらも、言葉を選んで、静かに口を開く。

 

「孤独、か。キミには僕のことがそんなふうに見えていたんだね。」

 

彼女の目を真っ直ぐに見て、言葉を続けた。

 

「この生き方が、きっと自分にとっての幸せなんだと思う。

キミには、感謝している。・・・本当に。」

 

彼女の表情に、わずかな陰が差したように見えた。

けれどその奥には、どこか安堵にも似た静けさがあった。

 

屋敷も、財産も、彼はすべて妻に残した。

執事には、これからは妻の支えになってほしいと告げ、静かに役目を託す。

 

彼は今後しばらく困らない程度の金と、身軽な荷だけを持って、旅立った。

 

その背を見送りながら、妻はそっとつぶやいた。

 

「私は、あなたを幸せにはできなかったけれど、

あなたが、自分でそれを見つけてくれたのなら。よかった。・・・幸せにね。」

 

その声は、少しだけ震えていた。

けれど、その瞳には確かに、誰よりも深い優しさが宿っていた。

 

 

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