拝啓、空の彼方のあなたへ

きっと、空に近い場所にいるあなたへ伝えたいこと。手紙、時々、コトバ。    <夫と死別したemiのブログ>

亡き夫と過ごした7日間 34

こうして彼は、世界中を旅する者となった。

 

かつて築いた財産はもう手元にはなかったが、

不思議と金に困ることはなかった。

 

立ち寄る先々で、彼はただ旅の出来事を語るだけでよかった。

面白おかしく、時に静かに。

そうして話す彼の言葉に、人々は耳を傾けた。

その話は金になった。

笑いになり、尊敬になり、そしてまた次の旅の糧となった。

 

彼の旅の暮らしは、投資家だった頃に比べれば、ずっと質素なものだった。

だが、それでも旅先から、孤児院への寄付は欠かさなかった。

金額は以前ほどではなかったが、その想いは、何も変わっていなかった。

 

毎日が楽しかった。よく笑い、よく歩き、よく眠った。

こんなにも自分が笑う人間だったとは。

眠りに就く前には、彼はこんなふうに1日を振り返った。

 

それは、何にも代えがたい人生の収穫だった。

 

時には、一見して困った出来事に遭遇することもあった。

例えばある日、国境近くの村で、彼は持っていた地図を怪しまれ、

言葉の通じない村人たちに囲まれた。

 

必死に身ぶりで説明していると、誰かが笑い出し、

それが村全体に広がって、最後には焚き火を囲んで果物を分け合っていた。

 

彼にとっては、そんな出来事さえ旅の楽しみのひとつに過ぎなかった。

 

60を過ぎても、彼は世界中を旅する者であり続けた。

 

体力こそ若い頃のようにはいかなくなっていたが、

どこかで出会う誰かの言葉や、見知らぬ土地の空気が、

変わらず彼の心を動かし続けていた。

 

歳を重ねるごとに、歩く速さはゆっくりと、荷物も少しずつ軽くなっていったが、

その分、彼の目は、以前よりも柔らかく、遠くまで見渡せるようになっていた。

 

そんなある日。

地図にも載らないような村で、ひとりの研究者に出会った。

ゴリラの社会構造を研究している、というその人物は、森と共に生きていた。

 

ゴリラのことなど、彼は何ひとつ知らなかった。

知っているつもりだったのは、図鑑の挿絵と、見世物小屋で見た剥製だけ。

だが、研究者の語るその生き物は、まるで別の存在だった。

 

群れには決まりがあり、役割があり、静かなやりとりがあった。

声を発さずとも通じ合う関係。

その不思議な絆を、研究者は静かに語った。

それは、彼にとって全く新しい世界だった。

というより、当時の誰にとっても、まだ何も知られていない世界だった。

 

ゴリラという生きものの存在自体、世間にはまだほとんど知られておらず、

たまに語られるのは、粗暴で野蛮な獣としての姿ばかり。

だが、目の前の研究者は、そのどれとも異なる像を見ていた。

 

長い観察の末に、彼だけが見出した、

群れの中の秩序と、互いを思いやる姿だった。

 

リーダーが子をあやし、年老いた個体に他が寄り添う光景。

争いを避けるための静かな合図。

けっして派手ではない、だが確かな、理解し合おうとする意志。

 

人間の世界でさえ、こんなふうに静かに支え合える場面がどれだけあるだろうか。

彼はふと、そんなことを思った。

 

人間社会とはまるで違うようでいて、どこか似ている。

その奇妙な感覚が、彼の心を静かに引き込んでいった。

 

研究者の住まいは、森の外れにひっそりと佇む簡素な小屋だった。

だが、壁には手書きの記録やスケッチがぎっしりと貼られ、

本棚には泥や日差しに焼けたノートが並んでいた。

 

「おもしろい旅をしてきたな。」

これは、彼がこの森へと辿り着いた日の研究者の声だった。

 

初日の夜、彼が語った旅の話に、研究者は笑みを浮かべた。

 

火を囲みながら、世界の片隅で起きた小さな騒動や、奇妙な出会い。

話の合間に挟まる沈黙すら、森の夜には丁度よかった。

 

そのまま数日、彼は研究者の元に泊めて貰った。

 

明け方には森へ同行し、双眼鏡越しにゴリラの群れを見つめ、

戻ってくると、スケッチや記録の手伝いをした。

言葉は多くなかったが、自然と互いの生活に溶け込んでいた。

 

そしてある日。

ノートの隅に小さく書かれた数字の計算式に、彼の目が留まった。

 

帳面の隙間には、乾いたインクで、次の渡航費や“機材の補修、

といった走り書きがあった。

「これは・・・」と声を掛けかけたが、言葉を飲み込んだ。

 

研究者は何も言わない。

けれど、それが彼のすべてであることは、数日で十分に伝わっていた。

 

食事は粗末で、器具もどこか壊れかけていた。

観察に使っている望遠鏡には、古い傷が残り、

記録用の紙すら裏面を使い回していた。

森へ向かう道も、ひとつひとつ手で整えられており、

外部の支援はまるで入っていないようだった。

 

研究は、情熱だけで、ぎりぎりのところで続いている。

それを支えるだけの資金が、明らかに足りていない。

彼は、静かに悟った。

 

彼は、もう少しこの場所に留まって、

研究者の話をもっと聞いてみたいと思っていた。

 

ゴリラの社会、森の変化、そしてこの静かな日々の重み。

すべてが、不思議と彼を魅了したのだ。

だが、彼は、また新たな旅に出ることに決めた。

 

朝早く、小屋の前で別れの握手を交わすと、

研究者はただひと言、「元気で」と言った。

その言葉の裏に、感謝も信頼も、すべてが詰まっていた。

 

それからの旅は、彼にとって新しい意味を持っていた。

かつてのように、ただ見知らぬ土地を巡るだけではない。

彼の語る言葉には、あの森の静けさと、

ひとりの研究者の情熱が、いつもそっと宿っていた。

 

「ーーー知ってますか? ゴリラの群れには、ちゃんと決まりがあるんです。

声も出しますが、目と仕草だけで通じ合うこともあるんですよ。」

 

食堂の一角で、路地裏の小さな広場で、或いは馬車の中で。

彼の語る旅の話は面白く、どこか人懐こく、そして不思議な余韻を残した。

笑いを誘いながらも、聞く者の胸に何かをそっと置いていく。

その何かが、少しずつ人々の心を動かしていった。

 

「本当にそんな研究をしてる人がいるのか?」

「もっと話を聞かせてくれ!」

「資金が必要なら、応援してやりたいな。」

 

気付けば、彼の旅の話は、あちこちで語り継がれていた。

話を聞いた者が、別の誰かに話し、また別の誰かがそれを文字にし、

それはまるでひとつの物語のように広がっていった。

 

そうしてある時から、

遠く離れた森の小屋に、ぽつりぽつりと支援の申し出が届き始めた。

差出人の名は、誰ひとりとして彼ではなかった。

だが、すべては彼の言葉が運んだものだった。

 

彼はそれを知ることなく、旅を続けた。

笑いと語り、そして、あの森で出会った研究者への静かな想いを胸に。

 

『こうして彼は、生涯、旅人であり続けた。

本当はね、あの森にとどまって、

ゴリラの研究をしたいって気持ちもあったんだよ。

でも、それと同時に、自分が旅人である理由も見つけたんだ。

だからこそ、森にはとどまらなかった。

ーーー残りの旅を続ける中で、彼は思ったんだ。

人生は、きっとひとつでは足りないのだと。』

 

もしも、生まれ変わりがあるのなら、

今度は、ゴリラの研究者になりたい。

 

彼は、この人生の中で、こんな来世の目標を見つけて、向こう側へと還った。

 

 

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