ゴリラの人の前々世の話を聞き終えた私たちは、暫く言葉も出なかった。
ただ静かにその余韻に浸っていた。
「家も財産も、奥さんに置いて行くって、凄いよね。
折角、そこまでになったのに、手放すのって、勇気が入ることだよね。」
やがて、口を開いたのは、あの子だった。
『そうだね。普通は躊躇するのかも知れない。
でも彼はね、お金は苦労して得るものではないと考えていたから、
そんな躊躇はなかったんだ。
そういう意味では、彼は子供の頃は苦労をしていたけれど、
囚われてはいなかったとも言える。』
そして、彼にとっての真の財産とは、経験だった。
誰かの言う幸せは、必ずしも自分に当て嵌まるとは限らない。
『本当はね、幸せに生きることは、困ることがないんだよ。
上手く出来ているのが人生だから。
でも、人は幸せかどうかよりも、安定を求める。
それを当たり前の正解であるかのように。
どうして自分がそんなふうに考えるようになったのか、
考えない人の方が多いのは、どうしてだろうね。』
夫は笑っている。
私たちはまた、考えさせられ、黙った。
確かに。
私たちはある種の約束が見えなければ、動けないことの方が多いのかも知れない。
幸せに生きる、とは、本当に難しい。
もう一度、ゴリラの人が歩んだひとつの人生を反芻してみれば、
私がふと思ったのは、別れた奥さんのことだった。
「でも・・・彼の奥さんは、なんだか可哀想だったね。」
こんな私の言葉に夫は言った。
『いや、全然。それどころか、この彼女は、彼に感謝していたんだよ。』
彼が別な人生を歩むことを決めたから、
彼女には、投資家になるという道が開けた。
彼女が持っていた隠れた才能を見つけてくれたのは、彼でもあったのだ。
彼が去った後は、彼女が孤児院への寄付をし続けたそうだが、
やがて彼女は大幅に資産を増やして、
孤児院の子供たちがより多くを学べるようにと環境を整えることも出来た。
これは実は、彼女がやりたかったことだった。
そうして彼が去ってからの数年後には、
彼女は、この家の執事と再婚することにもなったのだそうだ。
当時は、階級意識が強かったから周りは多少驚いたけれど、
でも、彼女は全く気にしなかった。
『彼女はね、初めて、愛される喜びを知ったんだよ。』
執事との間には、2人の子供も産まれたのだそうだ。
「執事って、おじいさんじゃないの?」
これはあの子の声だ。
どうやらあの子の中での執事とは、おじいさんという構図になっているようだが。
『違うよ。この家の執事は、彼よりも2つ3つくらい年上だった。
特に話さなかったけれど、彼女は、彼の少し年下だったから、
執事ともそんなに歳は離れていなかったんだよ。』
執事は、実は奥さんに一目惚れしていたと言うのだから、驚く。
彼は一生、その想いを内に秘めたままで仕えるつもりだったけれど、
彼が去り、傷付いた彼女に寄り添ううちに、
どうやらそのような展開になったのだそうだ。
「何それ!素敵じゃないの!」
こんな私の声に、夫とあの子は笑った。
『もしも、彼女が彼を引き留めていたのなら、
彼女は、人から愛される喜びを知らないままだったのかも知れないね。
これは、彼女が、彼の幸せを心から願った結果でもあるんだよ。』
人生は本当に不思議だ。彼女は彼を愛していたからこそ、彼の手を離した。
でも、その先には、ちゃんと彼女にとっての素敵な景色が待っていたのだ。
『彼は、自分が去った後の彼女の人生を知らない。
でも、幸せに生きることは実はこんなふうに、人を幸せにすることでもあるんだよ。
そして、自分の人生をしっかりと歩むことは、やがて、
人生はひとつでは足りないことにも気付くことにも繋がる。
彼みたいに、来世の目標を見つけてこっちに還って来る魂もいるんだよ。』
幸せに生きることを考えてみればみるほどに、それはとても難しい。
本当に真剣に生きなければ、きっと簡単に見失ってしまうのだろう。
「幸せに生きるってさ、本当に難しいことなんだね。」
小さく呟けば、夫は言った。
『幸せに生きることは、確かに簡単なことじゃない。
でもね、幸せに生きなくちゃって、力を入れ過ぎてはいけないよ。
飛べなくなるから。』
幸せに生きることに目を向けなければ何も見つからない。
でも、無理に幸せを感じようとするのは、幸せとは呼べない。
無理をすることは、囚われていることと同じだと夫は言った。
生きることが修行や学びだと捉えるとするのなら、
マイナスのエネルギーが存在するこの世界で、
どんなふうにより強いプラスのエネルギーを発生させるかが、
実は大きな課題なのではないのか。
夫の話を聞きながら、私はひとつ、こんな視点を見つけることが出来た。
でも、時々には疲れることだってあるし、
立ち止まってしまいたくなる日だってある。
それでも、幸せに生きることへと全力を注げば、
時にそれは無理をすることにも繋がるのかも知れない。
人生についてを真剣に考えれば考えるほどに、難しさばかりを感じてしまう。