『起きて?ねぇ起きて?』
今朝も、夫の声で目が覚めた。
夫が物質化されてからというもの、こうして毎朝、夫が起こしてくれている。
そう。1日だけ、寝坊した日もあったけれど。
生身の身体ではない夫だけは、眠らない。
だからこうして時間が来たら、あの子と私を起こしてくれるのだ。
眠る必要がない夫は、私たちが眠った後、
パソコンで、様々な映画を観て楽しんでいる。
あの子お勧めのアニメとか、
あの子お勧めのホラー映画とか、
あの子お勧めのアクション映画とか。
それらを楽しんでいる間に、いつもあっという間に朝になってしまうのだと、
こんな話を聞かせてくれたのは、
夫が物質化されてから、何日目のことだっただろう。
夫とあの子の映画の好みは、とてもよく似ている。
あの子がお勧めしてくれるものは全部面白いと夫も大満足な様子だ。
色々と心配ごとはありながらも、
夫はこの世界を満喫していて、なんだか安心する。
いつも通り、今朝も、夫がおりんを鳴らしてから、
コーヒーを飲むところから我が家の朝は始まった。
今朝の夫は、
昨夜、眠る前に、あの子がお勧めした映画についてを熱く語っている。
『あれも凄く面白かったよ。ラストが凄く良かった。
俺が居なくなってからのこの世界では、面白いものがたくさん生まれたんだね。』
夫の楽しげな声を聞きながら、少しだけ羨ましく思ってしまう。
だって、夫は眠らなくても良いのだ。
眠る時間がなければ、どれだけの物事を進めることが出来るだろう。
ついこんなことを考えてしまうのは、どうやら私だけではないようだ。
「俺も眠らなくて良い身体が欲しいよ。
24時間を全部、起きていられたとしたら、
俺はとっくに次の次の段階くらいまで進めているんだろうな。」
思わず私も頷いてしまったが、そんな私たちに夫は言った。
『どうして人間の体が疲れるように出来ているのか、考えて生きろ。』と。
思えば私はこれまで、眠る時間は無駄な時間だと考えたことはあったけれど、
どうして、疲れるように出来ているのか、と考えてみたことは、
これまでに一度もなかったような気がする。
きっと夫は、これ以上、何も教えてはくれないのだろう。
でも、新たな視点をひとつくれた。
きっといつか、自分だけのベストな歩み方を見つけられる筈だ。
「あぁ、なるほどね。」
小さく呟いたあの子もまた、ひとつ新たな視点として、
夫の言葉を受け取ったのだろう。
これから先、私たちがまた、いつもの日常生活へと戻ったのなら、
どんなふうに日々を過ごすようになったのか、
話し合ってみるのも、面白いのかも知れない。
朝食を終えると、あの子は早速、パソコンを開いて仕事を始めた。
今日の夫は、そんなあの子に、たくさんの褒め言葉を贈っている。
毎日、毎日、ちゃんと自分のやるべきことに向き合っていて偉いな。
こんなことまで出来るようになって、凄いよ。
毎日、努力を重ねていること、俺はちゃんと知っているからね。
こんな夫の言葉を、満更でもなさそうにあの子は受け取っている。
なんだか微笑ましい。
あの子に寄り添って、やけに褒めたかと思えば、
今度は朝食の後片付けを始めた私の側にやって来て、
夫はあの夏からの私の成長も褒めてくれた。
本当に成長したね。
でもね、俺は、初めから信じていたよ。
絶対に大丈夫だって。
なんだか照れてしまうけれど、夫の言葉は、とても嬉しかった。
やがて夫は、ベランダに出て、空を見上げていた。
今日は朝から青空が広がる気持ちの良い日だ。
今日の私は、溜まってしまった家事を手早く片付けることにしたのだけれど、
ベランダから戻った夫は、何故だか絡み付いて来た。
『ねぇ、何してるの?』
洗濯物を片手に、掃除機を片手に、絡み付いてくる夫の相手をする私と、
パソコンに向き合いながら、
絡み付いてくる父親の相手をするあの子に満足したのか、夫は一旦、静かになった。
かと思えば、また私たちに絡み付いて来る。
何してるの?と。
こんな午前中は、なんだか慌ただしくて、瞬く間に過ぎて行った。
昼を過ぎた頃、あの子の携帯電話が鳴った。
「はい。失礼します。」
電話を切った途端に、あの子を纏う空気感が変わった。
どうやら、今日のあの子は、これから忙しくなりそうだ。
「ごめん。急ぎの仕事が入った。」
こんなあの子の言葉に頷いて、私たちは、あの子が仕事に集中出来るようにと、
少しの間、出掛けることにした。
夫と2人で車に乗り込むと、私が自然と向かっていたのは、
夫と再会したあの、土手の上だった。
私たちは、手を繋いで、真っ直ぐに続く道をただ歩いた。
桜の時期を過ぎてしまった此処は、今日もとても静かだ。
この静かな感じも、この場所の良いところでもある。
桜の時期以外のこの場所も、私は気に入っている。
でも、もし出来れば、今日だけ、桜が咲いていたら良かったのに。
足元に見つけた小さな桜の花びらは、私をこんな気持ちにさせた。
「あなたと一緒に、此処の桜の景色を見たかったな。」
新緑たちがそよぐ様子を眺めながら、こんな言葉を呟けば、
『来年も再来年も、俺の分まで見ておいてよ。ここの桜の景色。』
隣から夫のこんな声が聞こえた。
そっか。次の春も、その次の春も、夫はもう、ここにはいないのだ。
何度も覚悟を決め直した筈なのに、胸の奥が痛く、苦しくなる。
私は、この人生をちゃんと生きたい。
それなのに、このまま夫とこの人生を歩んで行けたのならと、つい考えてもしまう。
夫が物質化されてからの私は、何度くらい揺れる気持ちと向き合って来ただろう。
自分にとっての前をちゃんと確認し直した筈なのに、また簡単にブレてしまう。
何度でも揺れる気持ちと向き合うことは、とても苦しい。
「このまま、時間が止まってしまえば良いのに。」
そうすれば、私はもう、覚悟を決め直さなくても良い。
夫の手の温もりを感じるこの瞬間の中にずっといることが出来たのなら、
私はそれだけで幸せだ。
夫の手を思わずギュッと握り締めれば、夫は私の手を握り返して来た。
・・・もの凄く強く。
「痛い!痛いよ!」
夫の手から逃れようとすればするほどに、力を入れて来る。
その痛みからどうにか逃れようと、体を捩れば、
『この世界の時間は止まらない。1秒足りとも。』
そう言って、やっと痛みから解放してくれた夫は、笑っている。
『家族3人での時間は、楽しかったね。あの頃も、そして今も。
でも、俺がこの世界にいなくても、あの子が遠くに暮らしていても、
やりたいことをやっている時間も、楽しいんでしょう?
自分ひとりで歩む時間だって、家族で過ごす時間と同じくらい楽しい。
そうでしょう?』
こう言って顔を覗き込んでくる夫に頷けば、夫は嬉しそうに笑った。
幸せだねって、言いながら。
『この世界には、永遠は存在しない。だからこそ新しい幸せを知れると思わない?
あの子が生まれた日、
あの子が初めて言葉を話した日、
あの子が初めて立ち上がった日、
全部、知らなかった幸せを知った日だったよね。
俺たちが初めて出会った日、俺は、こんな女性がいるんだなって思った。
俺たちが家族になった日、こんなに幸せで良いのかなって俺は思ったよ。
人生にはね、色々な幸せの形があるんだよ。
それは、どの時も永遠ではないから、色々な幸せを知れるとも言える。
俺がいなくなった後だって、いっぱい幸せなことがあったでしょう?
俺がいないのに、手放しで幸せを感じても良いのかなって、
もしもそんなふうに考えたことがあるのなら、これからは絶対に辞めてよね。
俺は、そんなふうに考えさせるために、生まれたわけじゃないし、
大切な人にそんな枷を付けるためにあの人生を選んで生まれたわけじゃない。
それこそ、囚われだよ。
俺がいた時も幸せだったし、俺が居なくなった後も幸せ。
それでいいんだよ。
人は幸せになるために生まれて来たんだから。』
夫の声に耳を傾けながら、私は、いつの間にか涙を流していた。
夫が亡くなってからの10年間に感じた様々な痛み、喜び、苦しさ、幸せ、
色々な感情が一気に蘇って、涙が止まらない。
夫は、私の涙を拭うと、
『これから本当にやりたいことは何?』
そう言って、真っ直ぐに私を見つめた。
『俺がまたここから居なくなっても、幸せの道はちゃんと続いて行くんだよ。
だから立ち止まるな。先に進め。幸せに生きろ。』
夫の顔があまりにも優しい顔をしているから、また勝手に涙が溢れて来てしまう。
でも、今度は自分でしっかりと涙を拭って、夫を見つめた。
今、目の前に、夫がいる。
今の私は、とても幸せだ。
でも、私には見たい景色がある。やりたいことがある。
私が見たい未来を思い描けば、ワクワクとしてしまう。
色々な方向に揺れ動いては、色々な方向から修正される。
きっと、魂は嘘をつかない。
だから私は、今、この瞬間を大切に胸の中へと刻んだのなら、
やっぱりちゃんと、自分の人生を生きたい。
『成長したね。俺、あの人生を選んで生まれて、良かった。』
夫のこんな声を聞いた時に、あぁ、そうかと思った。
私が、前を向いて生きることは、
私が幸せに生きることは、こんなふうに夫が喜んでくれることでもあるのだと。
これまで抱えていた何かが私の中からスッと消えて、
何故だか軽くなったような気がした。
私たちは、また手を繋いで、静かなこの場所を歩き出した。