あなたへ
こんなところにラーメン屋さんがあったんだなと、
まじまじと、暖簾が内側に掛かったラーメン店を見つめたのは、
先日の信号待ちでのことでした。
自宅から、そう離れてはいない場所であるにも関わらず、
長い間、そこにラーメン店があることなど、全く気が付いていなかった私が、
初めてその存在を知ることが出来たのは、信号待ちで並んだ際に、偶然にも、
ラーメン店の前に止まるような形だったからでした。
古くからの歴史を感じさせるその佇まいを何気なく見つめれば、
私の中へと不意に蘇ったのは、父の隣で見つめた景色でした。
それは、何処かのラーメン店での景色。
厨房がよく見えるカウンター席に着いて、父と2人で、
厨房で働く人の様子を見つめたという一コマの記憶でした。
あれは、私が幾つくらいの時だったのだろう。
小学生の頃だったのか、それとも、小学校へ上がる前の頃だったのか、
その記憶は曖昧ですが、何故だかそこには、母も妹もおらず、
父と2人だけであったことは、よく覚えています。
この席、良いだろ?
ラーメンを作ってくれている人の様子がよく見えてさ
これは、あの日の父の声でした。
あの日の私が何を食べたのか、その店はどこにあったのか、
そして何故、あの日の私は父と2人だけであったのか。
蘇った一コマの前後の記憶が全く見当たらないままであるのは、
あの一コマが、私にとって、
とてもインパクトの強い瞬間であったからなのかも知れません。
普段の父は、言葉が少なく、
自分の感情を表に出すような人ではありませんでしたから、
そんな父が、楽しげに、厨房の中で働く人の様子に見入っていたことが、
なんだかとても不思議だったのです。
そう言えば、そんなこともあったねと、
不意に蘇った記憶を反芻すれば、そこに結び付けるかのように蘇ったのは、
父と一緒に、粘土遊びをした日の記憶でした。
何か作って
こんな私の声に応えて、あの日の父は、私が渡した粘土を受け取ると、
餃子を作ってくれたのです。
昔、ラーメン店でアルバイトをしていたことがあったのだと、
思えばあの時、一度だけ、父はそんな話を聞かせてくれました。
手先が器用な父が粘土で作った餃子は、とても綺麗な形をしていました。
偶然に、ラーメン店を見つめたことをきっかけにして、
胸の奥へと仕舞われていた記憶が蘇れば、関連するかのような記憶が呼び覚まされて。
ふたつの記憶が結び付けば、私には、
そこに隠されていた父の本音が聞こえてしまったような気がしました。
父は、本当は別な人生を歩みたかったのではないかと。
学校を卒業した父は、堅い職業に就き、安定を手にその人生を歩み続けましたが、
時代背景の中で、父は、その道に納得するしかなかったのではないかと、
今の私には、そんなふうに思えてしまったのです。
私が母親となった頃、父は、早期退職の道を選びましたが、
もしもあの頃、何かやりたいことはないのかと、
父に聞いてあげることが出来ていたのなら、
父は、新たな挑戦をしていたのかも知れないと、
今になって、こんな視点を見つけることが出来たのは、
今の私が、自分の人生に、
しっかりと向き合えるようになったからなのかも知れません。
偶然見つけたラーメン店は、私の中へ眠り続けていた記憶を呼び覚ますと、
全く予期していなかった視点をひとつ、私に見つけさせました。
もう、何もかもが遅いのにと、
あの日の私は、なんとも言えない苦しさを感じてもしまったけれど、
私がこの人生の中で見つけた視点から、父という存在を見つめてみるのなら、
父もまた、その人生を、そして、
その時代を選び生まれ落ちたと捉えることが出来るのでしょう。
父は、その人生の中で、何を学び、
何を手にして、そちら側へと還って行ったのでしょうか。
もしも、あの頃の父が、
心のどこかに矛盾のようなものを抱えながら生きていたのなら、
それに勝る素敵な何かを手にして、
この世界を後にしてくれていたら良いなと思っています。
1軒のラーメン店を見つめたことで、
思わぬ胸の痛みをひとつ見つけたけれど、
深い愛情を向けてくれた父への感謝の気持ちを忘れずに、
この人生を、しっかりと生き抜こうと、
改めて、考えさせられた時間となりました。
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